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5月24日(木) [『歎異抄』を読む(その9)]

 著者は唯円だとするもう一つの理由は、これを書いた人は関東から京の親鸞のもとを訪ねて来た弟子に違いないという点です。これに関連する箇所も二箇所あります。第二章と第十章です。
 第二章では、親鸞がこんなふうに言っています。「をのをの十余ケ国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり」と。「みなさんはるばる十余か国の国ざかいを越えて、命がけでわたしを訪ねてくださったのは、ひとえに極楽往生の道を尋ね聞こうと思ってのことでしょう」ということですが、こんなふうに親鸞が語りかけている相手が関東からはるばるやって来た人たちであることは言うまでもありません。問題はその中に唯円もいたかどうかですが、これまた素直に読みますと、直に語りかけられた人が書いた文章に違いないと思います。傍で聞いていた人が書いたとはとても考えられない。第十章についてはすぐ後で取り上げます。
 という訳で、著者はまず間違いなく唯円ですが、ではこの本はいつ頃できたのでしょうか。
 親鸞が亡くなったのが1262年、唯円が亡くなったのが1288年とされますから、この間であることは確かです。ちょうど元寇の時代です。(1274年が文永の役、1281年が弘安の役)。親鸞在世中から、念仏の教えについてさまざまに歪んだ解釈が行われ、関東ではかなりの混乱が生じていたようです。それが善鸞の義絶事件にもつながるのですが、親鸞が生きていた時ですらこうですから、亡くなった後はますますひどくなったと思われます。親鸞から直に教えを受けた弟子も次第に減っていく中で、唯円としては居ても立ってもいられない気持ちになったのでしょう。自分のいのちがある間に親鸞から聞いたことばを残しておかなければならないと。

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