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12月2日(日) [『歎異抄』を読む(その200)]

 法然と親鸞とでは、智恵や才覚において差があるように、信心においても差があると考えるのが常識というものでしょう。それを「ひとつ」と言うのは道理に合わないように思えます。しかし、そのように言えるのは「こちらから」何かを得ようとする立場に立っているからです。ぼくらは日々「こちらから」出かけて行って何かを手に入れようとしています。衣食住は「向こうから」やってきてくれません、「こちらから」出向いて獲得しなければなりません。そうしますと、そこにはおのずから人によって差が生まれます。金持ちと貧乏人、賢い人と愚かな人、もてる人ともてない人などなど、格差には事欠きません。格差社会と言いますが、誤解を恐れずに言いますと、世の中には格差があるものなのです。
 もうだいぶ前の話ですが、小学校の運動会で徒競走をやめたということが話題になったことがあります。かけっこをすると、一番からビリまではっきりと差がつくから、子どもの心を傷つけると言うのです。これは何か変だなと感じました。確かにビリになった子は悲しい思いをするでしょうが、だからと言ってかけっこをやめてしまうというのでは、学校は何をする場なのか分からなくなってしまいます。学校は子どもたちの学力や体力、いや、もっと広く生きる力を養う場ですが、それをしようとしますといやでもおうでも差がついてしまいます。
 もう一度言います。「こちらから」何かを得ようとする限り、そこには必ず差が生まれてきます。そしてぼくらが生きるということは「こちらから」出かけて行って何かを手に入れることですから、生きることには格差がついて回るということです。そして学校とは子どもたちの生きる力を養成する場ですから、その力をいち早くつける子となかなかつけられない子の差が出てくるのは当然です。学校では子どもたちを競わせながら力をつけさせようと努力しているのです。競争と格差、これは学校という場に必ず付きまとうものです。いや、学校ほど競争と格差の激しい場はないかもしれません。

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