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3月25日(月) [はじめての親鸞(その88)]

 このところ死刑が執行されますと、誰がどの拘置所で執行されたかが新聞発表されるようになりました。これまであまりに国民が死刑について目隠しされてきたことが反省され、情報を開示しなければという機運になってきたということです。で、例えば「昨日、4名が死刑執行される」といった記事を見ますと、どういうわけかぼくの心が揺れるのです。その死刑囚がどんな人か全然知りません。なのに、心が揺れる。一昨年の年末に執行された1人は車椅子だったそうです。刑務官がその人を車椅子から立ち上がらせて天井から吊り下げるという光景はおぞましい。
 もちろん死刑囚になるということは、それが冤罪でなければ(このことがまた大きな問題ですが)、誰か人を殺したということです。人を何人も殺したのだから、自分が殺されても仕方がないじゃないかとも言えます。愛する家族を殺された側から言えば、殺した人間が生き延びているのは許せないという気持ちになるのも当然です。ここには何ともならない矛盾があります。一方では、何の罪もない人を無惨に殺すような人間は殺されても当然だ、それが正義というものだという思いが、しかしその一方で、どんなに罪深い人間であっても、そのいのちを奪うことは誰にも許されないという思いがあります。
 どんなに悪いヤツでもそのいのちを奪うことは許されないと思うのは、いのちはひとつに繋がりあっているからです。誰かのいのちを奪うことは、自分のいのちを奪うことと同じだからです。母は蜆の味噌汁を作ろうと煮立っている鍋に蜆を入れる時、「なむあみだぶ、なむあみだぶ」と称えていました。自分の身体が煮立ったお湯に入れられるような苦しみを感じていたのでしょう。やはり「生きんかな」の願いでいのちはひとつに繋がっているのです。

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