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7月15日(月) [はじめての親鸞(その199)]

 イエスはじっと俯いたまま何も答えません。詰め寄る人々にようやくイエスはこう言います、「あなた方の中で罪のない人がまずこの女に石を投げつけるがよい」と。これを聞いた人々は一人去り二人去りして、結局女とイエスだけが残されます。イエスは女にこう言うのです、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と。
 「石を投げつけるべきだが、投げつけるべきではない」、この矛盾を前にイエスは何も答えられなかった。どちらに答えても相手の術中に嵌るから答えられなかったのではなく、心底どちらとも思うから答えられなかったのだと思うのです。一方ではこの女は石を投げつけられても仕方がないと思う。しかし同じ程度に石を投げつけてはいけないと思う。「どちらなのだ!」と詰め寄られてイエスが答えたことばが光っています。「罪のない人がまず石を投げつけるがよい」。
 これはしかしどういうことでしょうか。
 「自分もこの女と同じような罪人であることを思えば、とてもこの女に石を投げつけることはできない。確かにこの女は罪を犯した。だから律法により石を投げつけられても仕方がない。でも自分には石を投げつけることはできない。だから罪のない人がまず石を投げつけるがよい」と、こう言っているのです。
 迫害する者を「許せないが、許せる」という矛盾にじっと耐えることができるのは、自分自身も「許されないのに、許されている」と思えるからに違いありません。自分が「許されないのに、許されている」ことに気づけば、それが身に沁みて、他人もまた「許せないが、許せる」のです。

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