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「信の一念」と「行の一念」 [『末燈鈔』を読む(その93)]

(12)「信の一念」と「行の一念」

 さて本文ですが、覚信房が問い合わせてきたのは「信の一念」と「行の一念」の関係についてでしょう。親鸞は『教行信証』においてこの二つの一念を区別して使っています。本願成就文の「名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん」の一念は「信の一念」であり、弥勒付属文の「かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せん」の一念は「行の一念」であるとしていますから、この二つはどういう関係にあるのかという疑問が生じるのももっともです。
 それに対して親鸞は、確かに「ふたつなれども、信をはなれたる行もなし。行の一念をはなれたる信の一念もなし」と答えます。この言い回し、どこかで見たことがあります。そうです、第9通に「誓願をはなれたる名号も候はず。名号をはなれたる誓願も候はず」とありました。言うまでもなく、誓願を信じるのが信で、名号を称えるのが行ですから、「誓願と名号」の対と「信と行」の対はぴったり重なり合います。ですから「誓願をはなれたる名号も候はず。名号をはなれたる誓願も候はず」ならば、当然「信をはなれたる行もなし。行の一念をはなれたる信の一念もなし」となります。
 ところが浄土教の歴史の中で、「信か行か」の論争は果てしなく繰り返されてきました。すぐ頭に浮かぶのが『御伝鈔』(親鸞のひ孫・覚如の著した親鸞の伝記)の一節です。まだ承元の法難という嵐がくる前の吉水草庵でのことです。法然のお弟子たちが参集する機会に、親鸞が「信によって往生が定まるか(信不退)、それとも行によってか(行不退)、皆さまのお考えに従い、分かれてお座りください」と呼びかけたというのです。多くが「その意をこころえざるあり(意味がよく分からずポカンとしていた)」という状況で、聖覚(『唯信鈔』の著者)と信空(最長老)そして遅れてきた法力(熊谷直実です)が信不退の坐につき、しばらくして法然も信不退の坐についたというのです。


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