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帰るということ [『唯信鈔文意』を読む(その48)]

(3)帰るということ

 親鸞は「来」とは浄土へ帰ることだと言います。中国語では、ここから出かけて行くことを「去(チー)」といい、その反対が「来(ライ)」です。親鸞が言うように「来」には「帰る」というニュアンスがあるのです。それにしましても「帰る」ということばには何ともしみじみした味があります。
 韓国のある学者が日本人の深い宗教性を一番よく示しているのが「夕焼け小焼け」という童謡だと言われたそうですが、確かに「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる お手々つないでみなかえろ カラスと一緒にかえりましょ」という歌詞にはぼくらのこころの原風景があるような気がします。
 ぼくは旅が好きで、よく出かけます。日常の時間からときはなたれたくなって旅に出るのですが、それもいつしか終わり、自分の家が近づいてきますと、どういうわけかホッとします。家から離れたくて旅に出たのに、また家が恋しくなるというのはおかしなものですが、帰る家があるということが何ともありがたい。
 もし帰るところがないとしますと、どんなにか不安でしょう。帰る家があるから旅に出ることができるのです。で、家に帰り、自分の布団にもぐりこんでは「ああ、わが家という旅館が一番だなあ」と言って妻に笑われています。ところがそのうちまた旅に出たくなるのですから、おかしなものです。
 ぼくらが生きるということは、さまざまなところへ「行く」ことに他なりません。学校へ行き、職場へ行き、買い物に行き、病院へ行き、等々。そして、さまざまなところへ「行く」ことは、とりもなおさず家に「帰る」ことです。どこかへ「行く」ことがあれば、そこにはすでに「帰る」ことが含まれています。


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