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帰るということ(つづき) [『唯信鈔文意』を読む(その49)]

(4)帰るということ(つづき)

 「帰る」ことのない「行く」は、もはや「行く」ではないでしょう。出征兵士が家を出発するときに「行ってまいります」と挨拶しますが、かなりの確率で帰ってこられないときの、この「行く」には複雑な思いがあるに違いありません。
 生きものにとって何より大事なのは、帰って休めるねぐらを確保することでしょう。それがあってこそ、多少の危険があっても外に出かけて行くことができる。やはり行くことは、取りも直さず帰ることです。
 人生そのものがよく旅にたとえられます。ただ人生という旅の場合、気がついたときにはもうその中にいて、以来ずっと旅の中です。まだ一度も家に帰ったことがありません。そもそも家がどんなところか知る由もありません、そこを出たときのことを記憶していないのですから。
 そしてこの旅の中では、次々と起こってくる目新しいことに対処するのに忙しく、帰る家のことなどほとんど意識しません。普通の旅のときも、日中は見るもの聞くものみな珍しく、それに夢中でしょう。しかし、夕暮れが近づいてきますと、その日の宿のことが気になってきます。それが決まっていないようなときは不安でなりません。
 同じように、人生のたそがれが近づいてきますと、帰る家のことが気にかかります。いや、まだ帰ったことがないのですから、そもそも帰る家があるのかどうか。
 人生のたそがれ時でなくても、思いがけない苦難に襲われたようなとき、ぼくらは「帰りたい」という思いで一杯になります。旅先でひどい目にあったようなとき、人目もはばからずに「家に帰りたい」と泣き叫ぶのと同じです。しかし人生の旅路に帰る家があるのか。思い浮かぶのは善導の「二河白道」の譬えです。


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