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『想像ラジオ』 [『一念多念文意』を読む(その174)]

(8)『想像ラジオ』 

 大震災をめぐる生者と死者の交流を扱った小説・『想像ラジオ』(いとうせいこう著)を読みました。文章がところどころ読みにくいということはありますが、いろいろ考えさせてくれるいい作品と言えるのではないでしょうか。小説の中にボランティア活動をしている若者同士の会話が出てきて印象的です。
 一人(ナオ君)は「生者と死者とは関われないのだから、もう死んだ人のことは忘れなければならない、生きている人が大事だ」という立場、もう一人(宙太君)は「死者のことは決して忘れてはならない、その声を聞こうとすることこそ必要だ」という立場で発言します。
 宙太君:「(自分たちのボランティアという)行動と同時にひそかに心の底の方で、亡くなった人の悔しさや恐ろしさや心残りやらに耳を傾けようとしないならば、ウチらの行動はうすっぺらいもんになってしまうんじゃないか」。
 ナオ君:「いくら耳を傾けようとしたって、溺れて水に巻かれて胸をかきむしって海水を飲んで亡くなった人の苦しみは絶対に絶対に、生きている僕らに理解できない。聴こえるなんて考えるのはとんでもない思い上がりだし、何か聴こえたところで生きる望みを失う瞬間の本当の恐ろしさ、悲しさなんか絶対にわかるわけがない」。
 ナオ君は死者の他者性を強調します、死者の思いなど分かる訳がないと。しかしそれは生者の場合も同じでしょう。目の前にいる人が、見ず知らずの人ならもちろん、よく知っている人だって、ほんとうのところ何を考えているかは分かりません。他者とはそういうものです。
 当たり前のことのようで、ぼくらはともすればこのことを忘れてしまいがちです。自分の考えていることは他人にも当然理解されると思ってしまう。で、まったく違うことを言われると、「話にならん」と会話を打ち切ってしまうことになります。しかし思いもしないようなことを考えるからこそ他者です。

タグ:親鸞を読む
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