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主客未分 [『浄土和讃』を読む(その88)]

(5)主客未分

 「染香人」ということばは『首楞厳経』という経典に出てくるそうですが、このことばについてもう少し思いをめぐらせたいと思います。
 香りが身体に染み付くように、光もときに身体に染みわたらないでしょうか。としますと、「染光人」という言い方もできるように思えます。さらには声も身体に染みとおることがある。とすれば「染声人」です。こんなふうに、「わたし」がいい香りを嗅いだり、「わたし」が美しいものを見たり、「わたし」が妙なる声を聞いたりするより前に、芳しい香りや麗しい光や心地よい声がぼくらの身体を染め上げてしまう。
 香りや光や声に身体が染め上げられているとき「わたし」はまだどこにもいません。そこでは西田幾多郎の言う「主客未分」が現出しています。ところが、とつぜん場面が転回して、舞台に「わたし」が躍り出てきて、「わたし」が香りを嗅いだり、「わたし」がものを見たり、「わたし」が声を聞いたりします。
 バリ島に行ったときのことを思い出します。観光に出かけようと小型のバスに乗り込みますと、車内全体に何とも言えないいい香りが漂っています。「ああ、なんていい香りだ」と陶然としたのですが、すぐさまぼくの鼻はそれがどこからやってくるのかと犬のようにクンクン嗅ぎまわります。そして運転席の横に花かごがあり、そこから芳しい香りがやってきていることに気づく。
 花の香りに陶然としたとき「わたし」はまだ登場していませんでしたが(どこかで眠りこけていたのでしょうか)、すぐにしゃしゃり出てきて「この香りは何だ」と嗅ぎまわるのです。そのとき香りのする方を「嗅いで」いますが、それは「わたし」が香りの在りかを「見定めよう」としているのです。実際、眼はキョロキョロしながら辺りを探しているはずです、どこかに香りの元があるはずだと。かくして香りを嗅ぐ「わたし」と香りの主客が分離します。「わたし」が香りを「嗅ぐ」とき、「わたし」は実は香りを「見て」いるのです。そして主客が分離してしまう。


タグ:親鸞を読む
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