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末法の世だからこそ [はじめての『高僧和讃』(その103)]

(5)末法の世だからこそ

 次の和讃です。

 「末法五濁(まっぽうごじょく)の衆生は 聖道の修行せしむとも ひとりも証をえじとこそ 教主世尊はときたまへ」(第57首)。
 「末法の世に生きるもの、聖道の路あゆむとも、一人も証をえられぬと、釈迦は厳しく説きおきぬ」。

 これは先に引用しました『安楽集』の一節、「当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり」のすぐ前に、「大集月蔵経にのたまはく『わが末法の時のうちに、億々の衆生、行を起こし道を修すれども、いまだ一人として得るものあらず』」とあるのを受けています。正像末史観とは、釈尊亡きあと、時とともに世の中が劣化していくという思想です。正法(仏滅後500年)においては教・行・証ともにそろってあるが、像法(その後1000年)では教と行のみで証はなく、末法(その後1万年)では教のみあり、行も証もない、というように。
 このようにまず証がなくなり、次いで行もなくなるということは、機がそれだけ劣化していくということですが、それは自力が次第に衰えていくということであって、裏返して言いますと、他力がその輝きを増していくということです。末法の五濁悪世になると誰ひとりとして悟りをえることができなくなるということは、もちろん時代の悪化に他なりませんが、それをひるがえしてみれば、悪の気づきとともに本願他力の気づきのときがやってきたと見ることもできます。悟りをえることは難しくなってくるのですが、それは本願他力の気づきが得やすくなってくるということです。
 時代の悪(劫濁とよばれます)とは、単に自分の周りに悪が満ちてくるということではなく、自分自身が悪にまみれてくるということであり、それに否応なく気づかされるということです。前にふれました相模原市の知的障害者施設での大量殺人事件をいまいちど取り上げ、悪の気づきについて考えてみましょう。

タグ:親鸞を読む
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