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殻があるからひとつ [正信偈と現代(その185)]

(6)殻があるからひとつ

 「わたしのいのち」に殻がなく、直に「如来のいのち」と一体化しているとしましょう。これはどういう事態でしょうか。
 ぼくの部屋の窓の外ではいろいろな小鳥たちが木から木へ、枝から枝へと移動しながら餌を探しています。かれらには「わたしのいのち」など端からないでしょうから、もともと「如来のいのち」とべったりひとつであるといえます。ですから彼らには貪愛瞋憎の悩みなど無縁でしょう。イエスは言います、「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養いたまふ」(「マタイ伝」第6章)と。もし悟りというものがあるなら、彼らこそはじめから悟っているではないでしょうか。
 しかし、よくよく考えてみますと、彼らにはそもそも「わたしのいのち」がありませんから、「如来のいのち」もありません。したがって「わたしのいのち」は「如来のいのち」と一体であるという気づきもありようがありません。これを逆から言いますと、「わたしのいのち」という意識、すなわち「わたしのいのち」を覆っている煩悩の殻があるからこそ、「わたしのいのち」が実はそのまま「如来のいのち」であるという気づきがあるということです。
 「わたしのいのち」がない鳥たちには貪愛瞋憎の悩みはありませんが、同時に摂取の心光に気づく喜びもありません。
 それにしても、「わたしのいのち」と「如来のいのち」が煩悩の殻で隔てられているから、ひとつであることに気づくことができる、というのはいかにも不可解です。隔てられているということはひとつではないということであり、ひとつであるということは隔てられていないということであるように思います。ところが、隔てられているからひとつであるという。これはどう理解すればいいのでしょう。

タグ:親鸞を読む
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