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煩悩を断ぜずして涅槃を得る [はじめての『尊号真像銘文』(その152)]

(2)煩悩を断ぜずして涅槃を得る

 この4句の底には曇鸞『論註』の思想が流れています。親鸞が曇鸞からどれほど大きな影響を受けているかはいたるところで感じさせられますが、ここでもそれがはっきりあらわれています。
 さて最初の一句「よく一念喜愛の心を発すれば」を読みますと、『歎異抄』第1章の冒頭部分、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき」が頭に浮んできます。一念喜愛の心とは「一念慶喜の真実信心」であり、「念仏まうさんとおもひたつこころ」です。そのこころがおこるとき、「すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」のですが、そのことをここでは曇鸞流に「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」と言っているのです。「煩悩を断ぜずして」とは今生において、この穢土にいながらにして、ということです。煩悩をもった身のままで、涅槃をえるという途方もないことを言うのです。
 途方もないと言いますのは、これは文字通りにはまったき矛盾だからです。煩悩をもった身であるということはいまだ涅槃をえていないということですし、逆に涅槃をえたとしますと、もはや煩悩はないということです。にもかかわらず、煩悩をもったまま涅槃をえると言うのはどういうことか。たとえば「闇は闇のままで光である」と言うとしましょう。これまた文字通りにはまったき矛盾でしょう。でも、このことばはこう理解することができます。闇を闇と気づくためには、そのとき同時に光に気づくことが必要です。光に気づいてはじめて闇を闇と気づくことができます(光の存在に気づかないまま深海に生きる魚は自分が闇の世界にいることも気づかないままです)。とすれば、闇(の気づき)は取りも直さず光(の気づき)であると言うことができると。
 同じように、煩悩をもったまた涅槃をえるというのも、煩悩を煩悩と気づくためには涅槃に気づくことが必要である。涅槃に気づいてはじめて煩悩を煩悩と気づくことができるというように理解することができます。これが善導の言う機の深信と法の深信の二種深信であり、煩悩の気づき(機の深信)は取りも直さず涅槃の気づき(法の深信)であると言うことができるでしょう。曇鸞や親鸞が「煩悩を断ぜずして涅槃をうる」と言うのは、この意味であるとしか理解できません。

タグ:親鸞を読む
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