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悪は気づきとして [親鸞の手紙を読む(その78)]

(7)悪は気づきとして

 悪は気づきとしてしか存在しないということについて考えたいと思います。親鸞が「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と言うとき、その悪人とは気づきとしてしか存在しません。「自分は悪人だ」と気づいた人が悪人であり、それ以外のどこかに悪人がいるわけではないということです(そこを勘違いしますと、「悪人正機」の意味するところはいつまでも了解できません)。
 『罪と罰』のラスコリニコフは金を奪うために金貸しの老婆を殺しましたが、彼自身はそれを悪とは思っていません。「金貸しの老婆は生きている価値のない存在だが、自分は社会にとって有為な人間だから、老婆を殺して金を奪うことには、そうするだけの理由があり、自分にはそうする十分な権利がある」と思っています。のちにソーニャからそれがどんなに罪深いことであるかに気づかされるまでは。
 もちろん本人に悪の気づきがなかろうと(したがって本人は自分を悪人とは思っていなくても)、法廷はそれを悪と認定し、それ相応の罰を課します。そのために法が制定されており、そこには何を罪(悪)とするか、そしてどんな罰を課すかが明確に定められています。そのような法があり、法にもとづいて裁きをする法廷があってはじめて社会の秩序が維持できるのはその通りですが、それと悪の気づきとはまったく別のことです。
 法による悪の認定は客観的であるのに対して(本人がどう思おうが、悪は悪です)、自分は悪人であるという気づきは主観的であり(本人が悪と気づいてはじめて悪です)、両者は明確に区別しなければなりません。ラスコリニコフは法学部の学生ですから、どんな事情があるにせよ殺人を犯すことは重罪であり、どんな罰が課されるかはもちろん知っていますが、そして自分が逮捕されれば当然のこととしてそれを受け入れるでしょうが、しかし同時に「オレは悪人ではない」と言い張ることでしょう。
 さて、自分は悪人であると気づいたとき、何がおこるでしょう。言うまでもありません、「申し訳ない」という慙愧です。悪の気づきと慙愧とは一体です。

タグ:親鸞を読む
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