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本文3 [『教行信証』精読(その130)]

(7)本文3

 さらに『安楽集』から引かれます。先の本文2の末尾に、念仏三昧は三昧の中の王であるとあったのを受けて、ずっと先の(下巻の)この文が引かれたと思われます。

 またいはく、『魔訶衍1(まかえん)』のなかに説きていふがごとし、諸余の三昧は三昧ならざるにはあらず。なにをもつてのゆゑに、あるいは三昧あり、ただよく貪を除いて瞋痴を除くことあたはず。あるいは三昧あり、ただよく瞋を除いて痴貪を除くことあたはず。あるひは三昧あり、ただよく痴を除いて瞋を除くことあたはず。あるひは三昧あり、ただよく現在の障(さはり)を除いて過去・未来の一切の諸障を除くことあたはず。もしよくつねに念仏三昧を修すれば、現在・過去・未来の一切の諸障を問ふことなくみな除くなり」と。
 注1 魔訶衍論の略。魔訶衍は大乗の意で、魔訶衍論とは『大智度論』のこと。

 (現代語訳) また『大智度論』にはこう説かれています。念仏三昧以外も三昧でないわけではありません。たとえば、ある三昧は貪欲を除いてくれますが、しかし瞋恚・愚痴を除くことはできません。あるいは、ある三昧は瞋恚を除いてくれますが、愚痴と貪欲を除くことはできません。また、ある三昧は愚痴を除いてくれますが、瞋恚を除くことができないといった具合です。さらには、ある三昧は現在の煩悩を除いてくれますが、過去や未来の煩悩を除くことはできません。ところが、もしつねに念仏三昧を行じますと、現在・過去・未来の一切の煩悩をみな取りのぞいてくれます。

 念仏の偉大さを他の行と比較することで強調しようとしていますが、これでしかし念仏往生に孕まれているアポリアを乗り越えられるとは到底思えません。念仏往生のアポリアは他の行との比較を絶しているからです。それは相対的なアポリアではなく、絶対的なパラドクスであるということを忘れるわけにはいきません。そこからしますと、このような説き方をすることはむしろ念仏往生が絶対的なパラドクスであることを覆い隠してしまう恐れがあると言わなければなりません。念仏の偉大さは、それが他の行より相対的に優れていることにあるのではなく、「念仏は自力でありながら同時に他力である」というパラドクスにあるのですから。

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難の中の難 [『教行信証』精読(その129)]

(6)難の中の難

 どうも『安楽集』の論証力(人を頷かせる力)は弱いと言わざるをえません。いや、たった一回(『観経』に十回とあるのは、つきつめれば、たった一回ということです)の念仏で往生できるとする説そのものが、あまりにパラドキシカルで、どんな論証もはねつけてしまうと言うべきかもしれません。たった一回の念仏とは究極の易行でしょう。こんなに容易いことはありません。だからこそ、ただそれだけで往生できるというのは、それを了解するのがとんでもなく難しい。易行にして難信。経典もこの難しさをこれでもかとばかり強調します、「善知識に遇ひ、法を聞きてよく行ずる、これもまた難しとなす。もし、この経を聞かば、信楽受持すること、難の中の難、この難に過ぎたるはなけん」(『大経』末尾)と。
 この難しさはどこからくるのか。
 たった一回の念仏で往生できるというのは、あまりに虫のいい話ではないかと思うのは自然です。そもそも菩薩が菩提心を発して仏道を歩もうとするとき、その階梯は十信・十住・十行・十回向の40階位を進み、そしてはじめて初地、すなわち正定聚不退に至るとされ、生やさしいものではありません(初地に至ったのち十地の階位を歩み、等覚そして妙覚とよばれる仏の境界に達します)。それが、たった一回の念仏で正定聚不退に至るというのは、どう考えても常識から外れています。だから信じられない。易行にして難信というのはパラドクスでも何でもありません。易行にもかかわらず難信なのではなく、易行だから難信なのです。ほんとうは難行であるはずなのに、それを易行だというものだから難信なのです。
 さてしかし、この常識はすべて自力の前提にたっています。難といい易というのはすべて自力の土俵でのことです。そして、ほんとうのパラドクスは「易行にして難信である」ことにではなく、実は「自力にして他力である」ことに潜んでいるのです。念仏は、それがたった一回であるとしても自力であることは間違いありません。自分で念仏しようとして念仏するのですから(それ以外に念仏のしようがあるでしょうか)、それはあくまで自力です。しかし、それが実は他力であるということ、ここに正真正銘のパラドクスがあります。

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たった一念の念仏で [『教行信証』精読(その128)]

(5)たった一念の念仏で

 たった一本の栴檀樹が四十由旬の伊蘭林を芳しい香りに変えてしまうように、たった一念の念仏があらゆる障りを滅してしまうのはどういうわけかと問い、それに答えて『華厳経』から三つの譬えを持ち出しています。譬えをつかった説明に対する疑問に、さらに譬えで答えているのですが、『華厳経』の譬えが伊蘭林の譬えを凌駕しているとは感じられず、この箇所はさほど説得力がないと言わざるをえません。念仏の不思議はどんな譬えを用いても近づきがたいということでしょうか。
 当時、念仏に対する深刻な疑義として「別時意説」というものがありました。『観経』に五逆・十悪の愚人も、臨終にあたり善知識の勧めにしたがい、十回でも「南無阿弥陀仏を称へ」れば、「念々の中において、八十億劫の生死の罪を除き」、往生することができると説かれているが、それはあくまでも方便としての説であり、ずっと先の別の時の話を、ただちに往生できるかのように言われているだけだとするのです。天親の兄・無着の著した『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』の中に、仏の方便説のひとつに別時意があると説かれているのをもとに、『観経』の念仏往生の教えもこの方便説であると主張する人たちがいたのです(摂論家あるいは通論家といいます)。
 この考え方は常識にも合致し、かなりの力をもっていたと思われ、道綽もこれを意識して『安楽集』のなかでこれに反論しています。その要旨は、今生に五逆・十悪をつくるとはいえ、臨終に際して念仏を称えることができるのは、過去世において相応の宿因があるからであるというのです。とんでもない極悪人が臨終にたった十回念仏するだけで往生できるなんてどう考えても理不尽だという常識に対して、いや、今生では悪を重ねてきたとしても、それ以前に善業を積んでいるからこそ、臨終に際して善知識に遇うことができ、念仏することができるのだと反論しているのです。
 さてしかしこの反論で摂論家の人たちは納得するでしょうか。とてもそうは思えません。過去世のことを持ち出せば何とでも言えるからです。

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本文2 [『教行信証』精読(その127)]

(4)本文2

 本文1につづく文です。

 問うていはく、一衆生の念仏の功を計(はか)りてまた一切を知るべし。なにによりてか一念の功力(くりき)よく一切の諸障を断ずること、一つの香樹の、四十由旬の伊蘭林を改めて、ことごとく香美ならしむるがごとくならんやと。
 答へていはく、諸部の大乗によりて念仏三昧の功能(くのう)の不可思議なるを顕(あらわ)さんとなり。いかんとならば『華厳経』にいふがごとし。たとへば人ありて師子の筋(すじ)を用ゐて、もつて琴の絃(お)とせんに、音声(おんじょう)一たび奏するに、一切の余の絃ことごとくみな断壊するがごとし。もし人菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の煩悩、一切の諸障ことごとくみな断滅すと。また人ありて牛・羊・驢馬(ごようろめ)一切のもろもろの乳をしぼり取りて一器のなかに置かんに、もし師子の乳一渧(たい)をもつてこれを投(な)ぐるに、ただちに過ぎてはばかりなし、一切の諸乳ことごとくみな破壊(はえ)して変じて清水(しょうすい)となるがごとし。もし人ただよく菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の悪魔諸障ただちに過ぐるにはばかりなしと。またかの『経』にいはく、たとへば人ありて、翳身薬(えいしんやく)を持つて処々に遊行するに、一切の余行この人を見ざるがごとし。もしよく菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の悪神、一切の諸障、この人を見ず、もろもろの処々に随ひてよく遮障することなきなり。なんがゆゑぞとならば、よくこの念仏三昧を念ずるは、すなはちこれ一切三昧のなかの王なるがゆゑなりと。

 (現代語訳) 一人の念仏をおしはかって、一切を知ることができるというものでしょうが、たった一念の念仏が、すべての煩悩を断滅するのが、一本の栴檀樹が四十由旬の伊蘭林を芳しい香りにするようであるとはどういうことでしょうか。
 お答えしましょう。大乗の諸経典から念仏三昧の力の不思議さをあらわしますと、華厳経にはこうあります。人が師子の筋で琴の絃を作り、それをひとたび弾ずると、他の絃がことごとく断ち切れてしまうように、もし人が菩提心をもって念仏三昧を行ずれば、すべての煩悩や罪障が断滅するようなものです。また人が牛や羊、驢馬から搾った乳を一つの器にいれて、そこに師子の乳を一滴たらせば、他の乳はことごとく清水となってしまうように、もし人が菩提心をもって念仏三昧を行ずれば、すべての悪魔や障りは追い払われてしまうようなものです。あるいはまた同経にこうあります、人が身体が見えなくなる薬を用いて、あちこち歩き回っても、他のすべての人に見られないように、もし人が菩提心をもって念仏三昧を行ずれば、すべての悪神、すべての障りがこの人を見ることはなく、どこを歩き回っても妨げることができないようなものです。どうしてかといいますと、念仏三昧はすべての三昧のなかの王であるからです。

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あまねくみな香美ならしむ [『教行信証』精読(その126)]

(3)あまねくみな香美ならしむ

 生まれてこのかた伊蘭林に住み続けている人も、その匂いを臭いとも何とも思っていないでしょう。ところが、あるとき栴檀の木の芳しい香りにふれてはじめて、伊蘭の匂いがたえがたく臭いということに気づきます、「あゝ、これまでこんなひどい匂いの中で生きてきたのか」と。それと同じように、念仏の香気にふれてはじめて煩悩のたえがたい臭気に気づきます。念仏の香気を知らず、ただただ煩悩の臭気の中でひねもす暮らしてきた人は、煩悩の臭気も知らないままです。念仏の香気を知ることと、煩悩の臭気を知ることはひとつということです。
 先に述べたことと合わせて言いますと、こうなります。弥陀の本願に遇うことができ、念仏の香気にふれますと、そのとき同時にこれまでたえがたい煩悩の臭気の中にいたことに気づくのですが、しかし念仏の香気にふれたからといって、それが煩悩の臭気を消してくれるわけではなく、これまで同様、煩悩はたまらない匂いをまき散らし続けています。とするなら、煩悩の臭気に気づかないままの方がいいではないか、と言われるかもしれません。念仏の香気にふれてしまったばかりに、煩悩のたまらない匂いを知ることになるのなら、どちらも知らずにいる方がいい、と。
 もっともなようですが、ここでもう一度『安楽集』のことばに戻りますと、「栴檀の根芽ようやく生長して、わづかに樹にならんとす。香気昌盛にして、つゐによくこの林を改変して、あまねくみな香美ならしむ」とありました。たった一本の栴檀の木が、見渡す限りの伊蘭林を芳しい香りに変えてしまうと言うのです。何度も言うようで恐縮ですが、伊蘭林のたまらない匂いが消えてしまうわけではありません、それはこれまでと何も変わらないのですが、ただ栴檀の強い芳香が伊蘭林の臭気を圧倒してしまい、もう辺り一面、芳しい匂いで満たされるのです。
 そのように、念仏の強い芳香が煩悩林の臭気を圧倒して、辺り一面、念仏のいい香りに満たされますから、もうそこに浄土が現在していると言えるのではないでしょうか。

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念仏の香気 [『教行信証』精読(その125)]

(2)念仏の香気

 念仏の功徳を伊蘭林と栴檀の譬えでみごとに説いているところです。道綽が譬えの意味をみずから明かしてくれていますように、伊蘭の林とはわれらの煩悩の心で、一本の栴檀の樹とは念仏の心です。伊蘭の大樹林のなかに、たった一本の栴檀の樹が、しかもわずかに若木としての姿をあらわすだけで、林全体を覆っていた耐え難く臭い匂いが、一気に芳しい香気に変わってしまうように、煩悩の心のなかに、わずかに念仏の心が芽を出すだけで、煩悩の苦しみが菩提の喜びに一変してしまうというのです。印象的な譬えで念仏の力を分かりやすく伝えてくれます。
 ただ、この譬えを読むとき気をつけなければならないことがいくつかあります。まず「伊蘭の林のなかに一本の栴檀の木が生えるとき、伊蘭の耐え難い臭気が消えて、栴檀の香気ばかりになってしまう」のではないということです。香水というのも、体臭を消してくれるのではなく、よい香りで元の匂いを紛らしているにすぎないでしょう。香水のよい香りが他を圧倒して、他の匂いが気にならなくなるだけです。栴檀の香気も伊蘭の臭気を消すのではなく、それを圧倒してしまうのです。伊蘭の臭気はもとのままただよっているはずですが、もう気にならなくなる。そのように念仏の香気も煩悩の臭気を消してしまうわけではなく、ただそれが気にならないようにしてくれるだけです。
 二つ目。伊蘭林の臭気は、生まれてこのかたずっとその中にいる人には臭気でも何でもないということです。鼻が麻痺してしまっているというよりも、伊蘭林の匂いしか知らない人には、それがいい匂いでも悪い匂いでもありません。かなり前のことになりますが、はじめて上海に行ったときのことを想い出します。上海の水道水はすべてそこを流れる黄浦江から取水されていますが、その水が何とも形容しがたい独特の匂いがするのです。レストランで食べる料理はすべてその水が使われていますから、みな独特の匂いがしますし、食後のコーヒーからも同じ匂いがしてきて、こりゃたまらんと思ったものでした。しかし生まれてこのかた上海に住み続けている人にはその水しかないのですから、何も気にならないに違いありません。

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本文1 [『教行信証』精読(その124)]

        第10回 たとひ大千世界にみてらん火をも

(1)本文1

 龍樹、天親、曇鸞につづいて、今度は道綽の『安楽集』からです。

 『安楽集』にいはく、「『観仏三昧経』にいはく、父の王1をすすめて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまふさく、仏地の果徳、真如実相第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざると。仏、父の王に告げたまはく、諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつると。父の王、仏にまふさく、念仏の功その状(かたち)いかんぞ、と。仏、父の王に告げたまはく、伊蘭林(いらんりん)の方四十由旬2(ゆじゅん)ならんに、一科の牛頭栴檀(ごずせんだん)あり。根芽(こんげ)ありといへども、なほいまだ土を出でざるに、その伊蘭林ただ臭くして香ばしきことなし。もしその華菓を噉(だん)することあらば、狂を発して死せん。後の時に栴檀の根芽やうやく生長して、わづかに樹にならんとす。香気昌盛(こうけしょうじょう)にして、つひによくこの林を改変して、あまねくみな香美(こうみ)ならしむ。衆生みるものみな希有の心を生ぜんがごとし。仏、父の王に告げたまはく、一切衆生、生死のなかにありて念仏の心もまたかくのごとし。ただよく念をかけてやまざれば、さだめて仏前に生ぜん。ひとたび往生を得れば、すなはちよく一切の諸悪を改変して大慈悲を成ぜんこと、かの香樹の伊蘭林を改むるがごとしと。いふところの伊蘭林とは、衆生の身のうちの三毒・三障3無辺の重罪にたとふ。栴檀といふは衆生の念仏の心にたとふ。わづかに樹とならんとすといふは、いはく、一切衆生ただよく念をつみてたえざれば業道成弁するなり。
 注1 釈迦の父、浄飯王。
 注2 長さの単位で、一日の旅程をあらわす。
 注3 三毒は貪欲・瞋恚・愚痴、三障は惑(煩悩)・業(悪業)・苦。

 (現代語訳) 『安楽集』にこうあります。『観仏三昧経』に説かれるには、釈迦が父の浄飯王に念仏三昧を勧められたとき、王は仏に、どうして弟子の私に仏の悟りの境地である真如実相である第一義空を勧められないのでしょう、と問われました。仏はこれに答えて、諸仏の境界はあまりに深く、神通や解脱に至っておられますから、凡夫の行ずる境界ではありません。そこで念仏三昧をお勧めしたのです、と言われます。そこで王は問われます、念仏にはどのような功徳があるのでしょう、と。仏は次のような譬えで答えられます。四十由旬四方の伊蘭の林があり、そこに一本の牛頭栴檀が生えています。しかしまだ根芽だけで、土の下に隠れていますから、伊蘭の林は臭い匂いばかりで、芳しい香りはありません。その華や果を食べれば狂い死にしてしまいます。しかし栴檀の根芽も次第に成長して、ようやく樹になろうとするときには、その香気が非常に強く、林のすべてを芳しい匂いに変えてしまいます。これを見るものはみな不思議の思いに包まれるようなものです、と。仏は王に言われます、すべての衆生が生死の苦しみにある中で、念仏の心が生まれるのも同じことです。ただ弥陀の本願を憶う心がたえなければ、かならず往生し、往生すれば、一切の悪が転じて大慈悲の心となることは、あの一本の香りの樹が伊蘭の林を一変させるようなものです。譬えで伊蘭の林といいますのは、衆生の身にそなわる三毒・三障あるいは限りない重罪のことで、栴檀といいますのは、衆生の念仏の心のことです。また、栴檀がようやく樹になろうとするといいますのは、本願を憶う心がおこり、それがたえなければ、ただそれだけで往生が果たされるということです。

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牽強付会? [『教行信証』精読(その123)]

(21)牽強付会?

 この文で注目しなければならないのは、ここでも親鸞は普通の読みとは違う読み方をしていることです。「回向為首得成就大悲心故」は「回向を首となす。大悲心を成就することを得んとするがゆゑに」と読むのが自然ですが、親鸞は「回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに」と読み、また「作願共往生阿弥陀如来安楽浄土」は「ともに阿弥陀如来の安楽浄土に往生せんと作願するなり」と読むところを、「作願してともに阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまへるなり」と読んでいるのです。
 違いは明らかでしょう。普通の読み方ではわれら行者が作願し回向するのですが、そしてそれが『論註』の(そして『浄土論』の)基本的スタンスですが、親鸞的には、作願し回向するのは法蔵菩薩であることになります。主体は行者としての天親菩薩であったはずなのに、いつの間にか法蔵菩薩に成り代わっているのです。しかし、そんな勝手な読みは許されるのでしょうか。それは牽強付会というもので、普通はあってはならないことであり、ましてや教えについての大事な文書を自己流に読み替えるのはもってのほかです。
 しかし親鸞は『論註』を、その最後の結論部(いわゆる「覈求其本―かくぐごほん―章」)から逆さに読んでいるのです。
 曇鸞は最後の最後のところで、われらがみづから修行を積むことで往生をえるといっても、「実を言うと(覈求其本)」、その背景に弥陀の本願力(「阿弥陀如来の増上縁」)が働いているのだと浄土の教えの深奥を明かしてくれたのでした(10)。そこで親鸞はその眼で再度『論註』を読み直していくのです。そうしますと文中の菩薩は言うまでもなく天親菩薩(をはじめとする仏道修行者)であるはずですが、それが法蔵菩薩にダブって見えてきます。かくして(天親菩薩が)「ともに阿弥陀如来の安楽浄土に往生せんと作願するなり」と読むべきところを、(法蔵菩薩が)「作願してともに阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまへるなり」と読まざるをえなくなるのです。

                (第9回 完)

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本文6 [『教行信証』精読(その122)]

(20)本文6

 これまで読んできました『論註』の文章はその上巻のはじめのところにあたり、『浄土論』冒頭の「世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。われ修多羅の真実功徳相によりて、願偈総持を説きて、仏教と相応せん」という二行を注釈し終わっただけです。ところが次の引用文は一気に『論註』の下巻に飛び、五念門を注釈するなかで、その第五門、回向門について述べています。

 いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首(しゅ)として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑにとのたまへり。回向に二種の相あり。一には往相、二には還相なり。往相とは、おのれが功徳をもつて一切衆生に廻施して、作願してともに阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまへるなり」と。抄出

 (現代語訳) どのように回向するのでしょうか。苦悩するすべての衆生を見捨てることなく、回向を根本として慈悲のこころを実現しようと、いつもこころに願われているということです。回向に二種類あり、一つは往相の回向、二つは還相の回向です。往相回向とは、自身が修めた功徳をすべての衆生に施して、ともに阿弥陀如来の浄土に往生させようと願ってくださるということです。

 回向に往相と還相があるとあるのに、往相だけで途切れているのは、いまは往相について論じていて、還相はのちに「証巻」において取り上げようという親鸞の意向からであり、『論註』そのものはつづいて還相について述べています、「かの土に生じおはりて、奢摩他(しゃまた、止、禅定のこと)、毗婆舎那(びばしゃな、観、観察のこと)、方便力成就することをえて、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道にむかはしむるなり」と。要するに、往相とは浄土へ往く相(自身が救われる相)であり、還相は穢土に還り衆生済度する相(他の衆生が救われる相)ということです。


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本文5 [『教行信証』精読(その121)]

(19)本文5

 『論註』からの引用がつづきます。『浄土論』の第2行の注釈です。

 我依修多羅(がえしゅたら) 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応とのたまへりと。乃至 いづれのところにか依る、なんのゆゑにか依る、いかんが依ると。いづれのところにか依るとならば、修多羅(しゅたら、スートラ、経のこと)に依るなり。なんのゆゑにか依るとならば、如来すなはち真実功徳の相なるをもつてのゆゑに。いかんが依るとならば、五念門を修して相応せるがゆゑにと。乃至 修多羅は十二部経のなかの直説のものを修多羅と名づく。いはく四阿含(しあごん、小乗経典、『長阿含』、『中阿含』、『雑阿含』、『増壱阿含』のこと)、三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)等のほかの大乗の諸経をまた修多羅と名づく。このなかに依修多羅といふは、これ三蔵のほかの大乗修多羅なり。阿含等の経にはあらざるなり。真実の功徳相とは、二種の功徳あり。一には有漏(うろ、漏は煩悩のこと)の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫、人天の諸善、人天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顚倒す、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事(衆生を済度する仕事)を荘厳す。法性によりて清浄の相に入れり。この法顚倒せず、虚偽ならず、真実の功徳となづく。いかんが顚倒せざる。法性によりて二諦(にたい、世俗諦‐ことばであらわされた真理‐と真諦‐ことばをこえた真如実相‐)に順ずるがゆゑに。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄(ひっきょうじょう、完全な悟りのこと)に入るるがゆゑなり。説願偈総持与仏教相応とは、持は不散不失に名づく。総は少をもつて多を摂するに名づく。乃至 願は欲楽往生に名づく。乃至 与仏教相応とは、たとへば函蓋相称(かんがいそうしょう、箱と蓋がぴったり合う)するがごとしと。乃至

 (現代語訳) 「われ修多羅真実功徳相によりて、願偈総持を説き、仏教と相応せり」といわれます。(中略)この「よりて」といいますのは、何により、なぜよるのであり、どのようによるのでしょうか。何によるかといいますと、釈迦の説かれた経典によります。なぜよるのかといいますと、それは如来の真実の功徳を説いてあるからです。そしてどのようによるかといいますと、五念門を修めて仏の教えに相応するようによるのです。(中略)修多羅といいますのは、十二部経のなかの、仏の教えを直に説いてあるものを言います。小乗の四阿含や三蔵など以外の大乗の諸経典も修多羅といいます。ここで修多羅によるとありますのは、三蔵など以外の大乗の経典のことで、阿含などの経ではありません。真実功徳相と言うときに、二種類の功徳があります。一つは煩悩の心から生まれ真如法性にかなっていない功徳で、凡夫人天の功徳はその因も果も顚倒しており、虚偽であると言わなければなりませんから、不実の功徳と名づけます。二つは菩薩の清浄な智慧から生まれたもので、衆生済度のはたらきをします。これは法性にそい清浄なすがたをしています。これは顚倒せず、虚偽でもありませんから、真実の功徳と名づけます。どうして顚倒していないかといいますと、法性にそい二諦に順じているからです。どうして虚偽ではないかといいますと、衆生を摂取して涅槃へと導くからです。「願偈総持を説き、仏教と相応せり」の「持」とは、「散らさず失くさない」ということで、「総」とは少ないことばで多くを収めるということです。(中略)「願」とは往生を願うということです。(中略)「仏教と相応せり」といいますのは、たとえば函と蓋が合うように、仏の教えとぴたりと合っているということです。

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