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往生ということば [『教行信証』精読(その120)]

(18)往生ということば

 曇鸞がしようとしているのは、浄土教特有の「物語のことば」を「論理のことば」に翻訳することです。往生浄土という浄土教のキーワードを何とかして「論理のことば」に直そうと苦労しているのです。「往生」は「往きて生まれる」ことで、「浄土」は「浄らかな国土」ですから、これを「物語のことば」のままに受けとりますと、この穢れた娑婆世界とは別の世界(アナザーワールド)へ往ってそこで新たに生まれるということになりますが、それが実のところ何を意味しているのかを龍樹の論理をもちいて明らかにしようとしているのです。
 往生の「往」、浄土の「土」ということばそのものに「空間的な移動」が含意されていますが、それはそれらが「物語のことば」としてつかわれているからで、大事なことは、その物語が何を語ろうとしているかです。そこで往生の「生」ということばは、「生まれる」であるとともに「生きる」であることに着目しましょう(これは曽我量深氏から示唆を受けました)。往生とは「どこかまったく別の場所に生まれる」ことではなく、「これまでとはまったく別の生き方をする」ことであると。本願に遇うことができますと、これまでの生き方とはまったく違う新しい生き方をするようになる、それが往生であるということです。
 ではそれはどのような生き方か。
 本願に遇うまでは、ただひたすら「わたしのいのち」を生きてきました。「わたしのいのち」あってのものだねで、何の根拠もなく「わたしのいのち」を最上位に置き、それなくして何ごともはじまらない第一基点と思い込んできました。ところが本願に遇うことで、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」であるまま同時に「ほとけのいのち」であることに気づかされたのです。「わたしのいのち」が「わたしのいのち」でなくなることはありません、これまでと同様「わたしのいのち」ですが、そのままですでに「ほとけのいのち」を生きていることに思い至るのです。
 これが正定聚不退となることであり、これまでの古い生き方が終わり、新しい生がはじまるということです。

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無生の生 [『教行信証』精読(その119)]

(17)無生の生

 曇鸞がこの一節で言おうとしているのは、往生というものを実体化してとらえてはならないということです。それを彼は「無生の生」ということばで表現します。
 かなり先のところになりますが、曇鸞は浄土往生についてこう言っています、「かの浄土とは、阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有虚妄の生のごときにはあらざることを明かす」と(三有は三界と同じで、迷いの世界のことです)。三有虚妄の生とは輪廻転生のことですから、曇鸞がここで言っているのは、往生は転生とはまったく違うということです。ぼくらはともするとたとえば人間が畜生に転生するように、穢土から浄土へ往生するとイメージしてしまいますが、これは往生を転生と同一視し、ひいてはそれを実体化することに他なりません。
 では往生が「無生の生」であるとはどういうことか。穢土の生は穢土の生のままで浄土の生でもあるということです。穢土の生と浄土の生はもちろんひとつではありませんが、しかしまったく異なるわけでもないということです。これでは分かりにくいので、ぼく流に言い換えますと、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで、もうすでに「ほとけのいのち」でもあるということになります。「わたしのいのち」は他の無数のいのちたちとは異なるかけがえのないいのちですが、でも同時に他の無数のいのちたちとひとつにつながる「ほとけのいのち」でもあるということ。これに気づくのが往生であり、「無生の生」ということです。
 往生を転生と同一視しますと、それはいのち終わるときのことになります。ぼくらが人間から畜生に生まれ変わるのは、言うまでもなく人間としてのいのちが終わってからのことであるように、浄土に往生するのももちろん来世のこととなります。しかし往生とは「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」であることに気づくことであるとしますと、それは今生ただいまのことであり、「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(『末燈鈔』第1通)です。弥陀の本願に遇えたそのときに「無生の生」がはじまり、往生の旅がはじまるのです。

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往生とは [『教行信証』精読(その118)]

(16)往生とは

 この一節は龍樹の学徒たる曇鸞らしさがあふれています。往生という浄土教の根幹をなすことばについて、空の立場から疑義を出し、それにみずから答えているのです。
 二つの問答からなっています。まず、往生とは浄土に「生まれる」ということだが、そもそも仏教においては「無生」と教えているではないか、どうして天親菩薩ともあろう方が「浄土に生まれたい」などと言われるのだろうか、という問いです。これは本質的な問いでしょう。ぼくらはともすると、どこかに極楽浄土というすばらしい世界があり、そこにいのち終わってから生まれさせていただくというようにイメージします。これはとりわけ『観経』からくるものですが、こんなふうに思い描くのは「生まれる」ことを実体化しているのではないだろうかという根本的な疑義です。
 曇鸞は答えます、天親は生死を実体化しているのではなく、あくまで因縁生にすぎないものを仮に生まれると言っているだけであると。これだけではよく分かりませんが、龍樹の空観を背景に考えますと、次のように理解することができます。あらゆるものは縦横無尽の繋がり(因縁)のなかにあるから、そこからひとつだけ独立に取り出して、それが生じた(生まれた)とか滅した(死んだ)とか言うことは意味がないが(不生不滅です)、縦横無尽の繋がりのなかである因縁をとらえて、それを仮に「生まれる」ということはできる、と。天親が願生というのはその意味だというのです。
 二つ目の問いはこうです、往生とは浄土へ「往く」ということだが、そもそもあちらへ往くもこちらへ来るもないのではないか、と。こちらに穢土があり、あちらに浄土があって、こちらからあちらに「往く」というのも、先ほどと同じように穢土と浄土を実体化しているのではないかという疑義です。これに対しては穢土と浄土は「一にあらず、異にあらず」と答えます。もし穢土と浄土が一ならば、何の変化もなくノッペラボーということになり、もし両者が異ならば、連続ということが考えられません。昨日のぼくと今日のぼくは一ではありませんが(多少の変化があります)、しかし異ではありません(同じぼくです)。同じように、穢土と浄土も一ではないが、異でもありません。

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本文4 [『教行信証』精読(その117)]

(15)本文4

 本文3のつづきです。

 問うていはく、大乗経論のなかに、処々に衆生畢竟無生(ひっきょうむしょう)にして虚空の如しと説きたまへり。いかんぞ天親菩薩、願生とのたまふやと。答へていはく、衆生無生にして虚空の如しと説くに二種あり。一つには、凡夫の実の衆生を謂(おも)ふところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じて所有(あらゆること、あるということ)なけん。亀毛のごとし、虚空のごとしと。二つには、いはく、諸法は因縁生のゆゑに、すなはちこれ不生にして、所有なきこと虚空のごとしと。天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆゑに仮に生と名づく。凡夫の実の衆生、実の生死ありと謂ふがごときにはあらざるなりと。問うていはく、なんの義によりて往生と説くぞやと。答へていはく、この間の仮名の人(けみょうのにん、実体のないものに仮に名前をつけたもの)のなかにおいて五念門を修せしむ。前念と後念と因となる。穢土の仮名の人、浄土の仮名の人、決定して一を得ず、決定して異をえず。前心・後心またかくのごとし。なにをもつてのゆゑに。もし一ならば則ち因果なけん。もし異ならば則ち相続にあらず。この義、一異を観ずる門なり。論(『中論』など)のなかに委曲(詳しい)なり。第一行の三念門を釈しをはんぬと。乃至

 (現代語訳) 大乗の経典や論書のいたるところに、生きるものはつまるところ無生であり虚空のようであると説いてありますが、天親菩薩はどうして願「生」と言われるのでしょうか。お答えします。生きるものは無生であり虚空のようであると言われるのには二つの意味があります。一つは、凡夫は生きるものはそれ自体としてあるものであり、実の生死があると思うものですが、そんなものは実際にはなく、それは亀の毛のごとく、虚空のようであるということです。もう一つは、ありとあらゆるものは因縁によって生じるということで、これを不生といい、実体のないことを虚空のようであるというのです。天親菩薩が願生と言われるのは、後者の因縁生のことで、因縁によりますから、仮に生と言っているのであり、凡夫が生きるものは実体であり、実の生死があると思うのとはまったく違います。では、どうして「往」生と言われるのでしょう(「往」生も「来」生も迷妄ではないのでしょうか)。お答えします。この世界の仮の人が五念門を修するにあたり、前念が因となり後念に相続していきますが、この穢土の仮の人と浄土の仮の人は、決してひとつではありませんが、しかし決してまったく異なるわけでもありません。前念と後念も同じです。どうしてかといいますと、もしひとつでしたら、そこに因と果があることができませんし、もしまったく異なりましたら相続するとは言えません。これは「一でもなく異でもない」とする考えであり、龍樹菩薩の『中論』などに詳しく出ています。以上で、第一行の三念門についての注釈が終わりました。

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まず命があり [『教行信証』精読(その116)]

(14)まず命があり

 帰命が「命にしたがう」ことであるとしますと、帰命に先立って命が届いていなければなりません。まず命が届き、しかる後にその命にしたがうのです。われらはともすると、まずわれらの帰命があり、しかる後に如来の応答がある(われらが念仏することにより、如来がそれに応えてくださる)と思いますが、そうではなく、帰命があるということは、それに先立って命が来ていなければなりません。まず如来の命があり、それへの応答としてわれらの帰命があるのです。親鸞はこの如来からわれらへのベクトルを示唆して、命とは「使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり」と注釈してくれたに違いありません。
 行者から如来へのベクトルより前に、如来から行者へのベクトルが届いていることをみてきましたが、これをさらに別の観点から考えてみましょう。
 天親は『浄土論』の冒頭に、ということは、何の根拠も示さずに、「世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」と言いますが、どうして天親は「尽十方無碍光如来に帰命したてまつる」のか、そうすることにどんな根拠があるのかが問われなければなりません。それは「経にそう書いてあり、天親はそれを信じるから」でしょうか。しかし経にもいろいろあります。浄土の経典には確かにそう書いてありますが、どうして他の数ある経典類をおいて、特に浄土の経典を選ぶのか。このように問い詰めていくとき、とどのつまり、天親が尽十方無碍光如来に帰命するのは、如来から「そうせよ」との命が天親その人に届いているからというところに行きつきます。
 天親が「尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」るのは、天親が帰命し願生するよりはるか前から(十劫のむかしから)、如来から一切衆生に「尽十方無碍光如来に帰命し、安楽国に生ぜんと願ぜよ」との命が下っており、天親はあるときそのことに気づいたからに他なりません。如来から「帰っておいで」の声がするから、「はい、ただいま」と応じたのです。

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帰命ということ [『教行信証』精読(その115)]

(13)帰命ということ

 本論に入り、『浄土論』冒頭の一文、「世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」の注釈がはじまります。曇鸞の慧眼はこの一文に、天親いうところの五念門のうち、礼拝・讃嘆・作願の三門が入っていることを見いだします。これは阿弥陀仏の名号を称えるだけで、そこに礼拝も讃嘆も作願も含まれているということを意味します。天親は『浄土論』の冒頭において、みずから称名念仏をすることにより、礼拝・讃嘆・作願の行をなしているということです。
 この引用文を読む限り、天親が無礙光如来に向かって礼拝し、讃嘆し、作願しているとしか受け取ることができません。ベクトルはあくまで行者(天親)から無礙光如来へと向かっていて、無礙光如来から行者へ向かう線はまったく見えません。それは隠れたままですが、親鸞は注(煩わしくなるので本文では略しましたが、親鸞はところどころに頭注をつけています)により、その逆のベクトルの存在を匂わしています。すなわち、帰命の「命」について、「眉病の反、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり」と注釈しているのです(反とは反切の略で、未知の字の音を既知の二字で表す方法のこと。この場合「命」の発音が「みょう」であることを示しています)。
 ここに命の意味として使・教・道・信・計・召の六つが上げられています(後にでてくる有名な「六字釈―南無阿弥陀仏の六字についての注釈」においては、これにさらに業と招引が加わります)が、まず使と教は「しむ」と使役をあらわす文字で、言うまでもなく他力を意味します。そして道はものを「いう」ということから「おおせ」ということ、信は「たより」、計は「はからい」、そして召は「よぶ」で、いずれも「むこうから」はたらきかけがあり、それを受けることを意味します。命は、端的に言って「~せよ」という命令です。「上官の命を受けて、任務を全うした」などと言うときの命です。
 以上から、帰命とはすなわち「命にしたがう」ことであることが明らかになります。「尽十方無礙光如来に帰命したてまつる」と言うことは、「尽十方無礙光如来の命にしたがいます」と言うことに他なりません。

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本文3 [『教行信証』精読(その114)]

(12)本文3

 『論註』からの引用がつづきます。

 またいはく、「また所願軽からず。もし如来威神を加せずは、まさに何をもつてか達せん。神力を乞加(こつか)す。このゆゑに仰いで告げたまへり。我一心とは、天親菩薩の自督の詞(ことば)なり。いふこころは、無碍光如来を念じて安楽に生ぜんと願ず。心々相続して他想間雑(けんぞう)することなし。乃至 帰命尽十方無碍光如来とは、帰命はすなはちこれ礼拝門なり。尽十方無碍光如来はすなはちこれ讃嘆門なり。なにをもつてか知らん、帰命はこれ礼拝門なりとは。龍樹菩薩、阿弥陀如来の讃を造れるなかに、あるいは稽首礼(けいしゅらい)といひ、あるいは我帰命といひ、あるいは帰命礼といへり。この『論』の長行(じょうごう)のなかに、また五念門を修すといへり。五念門のなかに礼拝はこれ一つなり。天親菩薩すでに往生を願ず。あに礼せざるべけんや。ゆゑにしんぬ、帰命はすなはちこれ礼拝なりと。しかるに礼拝はただこれ恭敬(くぎょう)にして、かならずしも帰命ならず。帰命はこれ礼拝なり。もしこれをもつて推するに帰命は重とす。偈は己心を申(の)ぶ。よろしく帰命といふべし。『論』に偈義を解するに、汎(ひろ)く礼拝を談ず。彼此あひ成ず。義においていよいよ顕われたり。何をもつてか知らん、尽十方無碍光如来はこれ讃嘆門なりとは。下の長行のなかにいはく、いかんが讃嘆する。いはく、かの如来の名を称す。かの如来の光明智相のごとく、かの名義(みょうぎ)のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲(おも)ふがゆゑにと。乃至 天親、いま尽十方無碍光如来とのたまへり。すなはちこれかの如来の名によりて、かの如来の光明智相のごとく讃嘆するがゆゑに、知んぬ、この句はこれ讃嘆門なりとは。願生安楽国とは、この一句はこれ作願門なり。天親菩薩帰命の意(こころ)なり。乃至

 (現代語訳) 『論註』にまたこうあります。天親菩薩の願うところは軽々しくありませんから、如来の威神力にたよることがなければかなうものではありません。そこでそれを乞い求め、仰いで「世尊」と告げられたのです。次に「我一心」といいますのは、天親菩薩が自らを督促することばで、無碍光如来を信じて安楽国に生まれんと願うというのです。その思いは一筋で、他に揺れ動くものではありませんから「一心」と言っているのです。(中略)「帰命尽十方無碍光如来」の帰命は礼拝門で、尽十方無碍光如来は讃嘆門です。帰命が礼拝だといいますのは、龍樹菩薩が阿弥陀如来を讃嘆する偈を詠まれたなかに「稽首礼」といい、「我帰命」といい、「帰命礼」といわれている通りです。またこの『浄土論』の長行において五念門が説かれ、礼拝はそのひとつです。天親菩薩はすでに往生を願っておられるのですから、礼拝されないはずはありません。こんなわけで帰命は礼拝だというのです。しかし礼拝は敬う心を示すだけで、かならずしも帰命ではありません。帰命はかならず礼拝をともないますから、そこからしますと帰命の方を重しとしなければなりません。偈は天親菩薩自身の心を述べていますから、よろしく帰命というべきですが、偈を解説するところでは礼拝と言い、両者があいまってその意味がより明らかになります。次に尽十方無碍光如来が讃嘆門であるとはどういうことでしょう。後半の長行にこうあります、讃嘆するとはどういうことかといいますと、阿弥陀仏の名を称えることで、阿弥陀仏の智慧光にかない、その名の意義にかない、その実にかなって修行することです、と。(中略)天親菩薩はいま尽十方無碍光如来と言われますが、これはまさにこの名を称えることで、その智慧光を讃嘆することに他なりません。故に、この一句は讃嘆門です。「願生安楽国」といいますのは作願門です。天親菩薩の帰命の心です。

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孫悟空 [『教行信証』精読(その113)]

(11)孫悟空

 巨大なクルーズ船の上では、散歩をしたり、買い物をしたり、食事をしたり、はてはプールに入ることもできるといった具合で、地上で旅を楽しむのと何も変わりません。そこでぼくらは自分の思うままに動き回っているのですが、しかしそれもこれもみな船の上のことであり、ぼくらがそこで自由自在に動き回ることをすべて下から支えて、ぼくらを目的地へと連れていってくれるのです。船の上で自由に動き回るのは「自力」ですが、そのすべてが実は船という「他力」の上であるということ、ここに「自力」と「他力」の関係が見事にあらわれています。
 頭に浮ぶのはあの孫悟空です。お釈迦さまから世界の果てまで行けるかと挑発された孫悟空は、「お安い御用」とばかりに筋斗雲をとばして、世界の果てとおぼしき五本の柱に至ります。そして至りついた証拠としてその柱に落書きをし、ご丁寧にも小便をひっかけて戻ってくるのですが、お釈迦さまの手の指には、何とあの落書きと小便の跡が残っているではありませんか。孫悟空としては「わが力にて」世界の果てを極めたと思ったのですが、そしてそれは間違いではないのでしょうが、しかし実のところすべてはお釈迦さまの掌の上であったということです。
 ここから、自力と他力は、こちらに自力の世界、あちらに他力の世界といった具合に分かれてあるわけではないことが了解できます。ぼくらが生きている世界は、隅から隅まですべて自力であり、それがしかしそっくりそのまま他力に支えられているということです。ときどきこんなふうに言われることがあります、すべて他力のなせるわざだとすると、われらは他力に操られる木偶の坊にすぎなくなるのではないのか。われらの主体性とか自由とかはどうなるのか、と。しかし、心配無用、われらには主体性があり、自由があります。それがわれらの尊厳の源です。しかし、その主体性も自由もそっくりそのまま弥陀の本願という大船の上のことなのです。


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水路の乗船 [『教行信証』精読(その112)]

(10)水路の乗船

 曇鸞はそこに目をつけ、浄土の教えの根幹に自力と他力の対立軸を据えたということができます。
 そこで、のちに明らかにされる他力の本質について、その一端だけでも前もって述べておこうと思います。そうすることで『論註』の言っていることが、ひいては『浄土論』そのものが少しでも理解し易しくなると思うのです。曇鸞は『論註』の最終段で、あらためてこう問います、五念門を修することで「速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得といへる」のはどういうわけか、と。それに答えて、『浄土論』には「五門の行を修して、自利利他成就するをもつてのゆゑ」と書いてあるのだが、実を言うと(「覈(まこと)に其の本を求むるに」)、「阿弥陀如来を増上縁となす」と言うのです。
 われらが五念門を修することで自利・利他の行が成就されるから速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得ることができるのは間違いないことだが、それもしかし実を言えば阿弥陀如来の本願力によるのだということです。われらは「みづから」修行することで阿耨多羅三藐三菩提に至ると思っているが、そしてそれが間違っているわけではないが、しかしよくよく考えてみると、それもこれもみな弥陀の本願力のなせるわざであるということ。これを「水路の乗船」という優れた譬えで考えてみましょう。
 もうかなり前になりますが、北欧の旅をしたとき、スウェーデンからフィンランドまで、何万トンだったか、とにかく巨大なクルーズ船でバルト海を渡ったことがあります。乗船しますと、船の中に広がっている光景はちょっとした街並みで、広い街路の両脇にさまざまなしゃれたお店が軒を連ねています。目を見張りながらそこらあたりを歩き回っていますと、気づかない間に船はもう出航していました。ふと窓の外が目に入り、そこを景色が流れていることで船が動いていることに気づいたのです。そんな調子で、ごく普通に街中で生活するように過ごしている間に、船はぼくらをヘルシンキまで運んでくれました。

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自力と他力 [『教行信証』精読(その111)]

(9)自力と他力

 このように、この部分は『論註』の序にあたり、短いことばに全体が凝縮されていますから、その意味するところがそれほどはっきりしているとはいえません。それはこの後、この書全体で明らかにされていくわけですが、途中で道に迷わないよう、前もって必要なことを述べておきたいと思います。自力と他力の対立軸のことです。他力ということばはここで出てきたあとはあまり表面化しないまま注釈が進められていきます。そして最後のところで他力の本質が一挙に明かされることになります。このように他力の思想は『論註』の底流をもぐったままで、最終段となってはっきり姿をあらわし、そこからあらためて全体を見返してみますと、書物のすべてを貫いていることが明らかになるのです。
 それはこの書物が注釈しようとしている『浄土論』の性格に関わります。すでに見てきましたように、『浄土論』は「われら仏道修行者(菩薩)が如何にして疾く阿耨多羅三藐三菩提に至ることができるか」を説く書物です。そのためには礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の五念門を修することが必要であり、その果として近門・大会衆門・宅門・屋門・園林遊戯地門の五功徳門を得ることができると論じていくのでした。そこからしますと、この書物はあくまでわれらのなすべき行について説いているのであり、どこにも他力の入る余地がないように見えます。
 ところがこの『浄土論』という書物が不思議なのは、読んでいるうちに、天親をふくめたわれら修行者について説いているのではなく、法蔵菩薩のことを述べているように感じられてくるところです。五念門はわれらがなさければならない行ではなく、法蔵菩薩がわれらのためにすでになしてくれた行であると。法蔵が五劫思惟し、兆載永劫修行して、われらの往生のために本願・名号を用意してくださり、われらはそれに乗ずることで浄土往生することができるのだと。こうして一気に他力の世界が目の前に広がるのです。このように、いつの間にか、天親(われら)と法蔵がダブって見えてくるところに『浄土論』という書物の不思議な魅力があります。

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