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本文3 [『教行信証』精読(その114)]

(12)本文3

 『論註』からの引用がつづきます。

 またいはく、「また所願軽からず。もし如来威神を加せずは、まさに何をもつてか達せん。神力を乞加(こつか)す。このゆゑに仰いで告げたまへり。我一心とは、天親菩薩の自督の詞(ことば)なり。いふこころは、無碍光如来を念じて安楽に生ぜんと願ず。心々相続して他想間雑(けんぞう)することなし。乃至 帰命尽十方無碍光如来とは、帰命はすなはちこれ礼拝門なり。尽十方無碍光如来はすなはちこれ讃嘆門なり。なにをもつてか知らん、帰命はこれ礼拝門なりとは。龍樹菩薩、阿弥陀如来の讃を造れるなかに、あるいは稽首礼(けいしゅらい)といひ、あるいは我帰命といひ、あるいは帰命礼といへり。この『論』の長行(じょうごう)のなかに、また五念門を修すといへり。五念門のなかに礼拝はこれ一つなり。天親菩薩すでに往生を願ず。あに礼せざるべけんや。ゆゑにしんぬ、帰命はすなはちこれ礼拝なりと。しかるに礼拝はただこれ恭敬(くぎょう)にして、かならずしも帰命ならず。帰命はこれ礼拝なり。もしこれをもつて推するに帰命は重とす。偈は己心を申(の)ぶ。よろしく帰命といふべし。『論』に偈義を解するに、汎(ひろ)く礼拝を談ず。彼此あひ成ず。義においていよいよ顕われたり。何をもつてか知らん、尽十方無碍光如来はこれ讃嘆門なりとは。下の長行のなかにいはく、いかんが讃嘆する。いはく、かの如来の名を称す。かの如来の光明智相のごとく、かの名義(みょうぎ)のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲(おも)ふがゆゑにと。乃至 天親、いま尽十方無碍光如来とのたまへり。すなはちこれかの如来の名によりて、かの如来の光明智相のごとく讃嘆するがゆゑに、知んぬ、この句はこれ讃嘆門なりとは。願生安楽国とは、この一句はこれ作願門なり。天親菩薩帰命の意(こころ)なり。乃至

 (現代語訳) 『論註』にまたこうあります。天親菩薩の願うところは軽々しくありませんから、如来の威神力にたよることがなければかなうものではありません。そこでそれを乞い求め、仰いで「世尊」と告げられたのです。次に「我一心」といいますのは、天親菩薩が自らを督促することばで、無碍光如来を信じて安楽国に生まれんと願うというのです。その思いは一筋で、他に揺れ動くものではありませんから「一心」と言っているのです。(中略)「帰命尽十方無碍光如来」の帰命は礼拝門で、尽十方無碍光如来は讃嘆門です。帰命が礼拝だといいますのは、龍樹菩薩が阿弥陀如来を讃嘆する偈を詠まれたなかに「稽首礼」といい、「我帰命」といい、「帰命礼」といわれている通りです。またこの『浄土論』の長行において五念門が説かれ、礼拝はそのひとつです。天親菩薩はすでに往生を願っておられるのですから、礼拝されないはずはありません。こんなわけで帰命は礼拝だというのです。しかし礼拝は敬う心を示すだけで、かならずしも帰命ではありません。帰命はかならず礼拝をともないますから、そこからしますと帰命の方を重しとしなければなりません。偈は天親菩薩自身の心を述べていますから、よろしく帰命というべきですが、偈を解説するところでは礼拝と言い、両者があいまってその意味がより明らかになります。次に尽十方無碍光如来が讃嘆門であるとはどういうことでしょう。後半の長行にこうあります、讃嘆するとはどういうことかといいますと、阿弥陀仏の名を称えることで、阿弥陀仏の智慧光にかない、その名の意義にかない、その実にかなって修行することです、と。(中略)天親菩薩はいま尽十方無碍光如来と言われますが、これはまさにこの名を称えることで、その智慧光を讃嘆することに他なりません。故に、この一句は讃嘆門です。「願生安楽国」といいますのは作願門です。天親菩薩の帰命の心です。

タグ:親鸞を読む
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