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上衍の極致、不退の風航 [『教行信証』精読(その110)]

(8)上衍の極致、不退の風航

 この文は『浄土論註』(以下、『論註』と略称)の冒頭にあり、曇鸞はこれから天親の『浄土論』を注釈するにあたって、龍樹の『十住論』を持ち出しているのです。中観派の曇鸞らしいと言えますが、『十住論』を引き合いに出したのは、もちろん「陸路の歩行」に対する「水路の乗船」という易行の道がこの『浄土論』に遺憾なく明らかにされているということを言うためです。「この無量寿経優婆提舎は、けだし上衍(じょうえん、大乗のこと)の極致、不退の風航(ふうこう、風をはらんだ船)なるものなり」―これを言うために龍樹の難行と易行の区別を最初にもって来たということです。
 浄土の教えが「水路の乗船」であるのは、「仏願力に乗じてすなはちかの清浄の土に往生をえしむ。仏力住持して、すなはち大乗正定の聚にいる」ことができるからです。曇鸞はこの一文で『浄土論』を要約していると言えます。そしてこの要約のポイントは、龍樹の「難行vs.易行」という対立軸を「自力vs.他力」へと読み替えていることにあります。難行が難行である所以はそれが自力であることにあり、易行が易行である所以はそれが他力であることにあるということです。曇鸞は「五濁の世、無仏のときにおいて阿毗跋致(あびばっち、不退転)をもとむるを難とす」る理由を五つ上げていますが、その根幹は五番目の「ただこれ自力にして他力のたもつなし」にあると言えます。
 自力と他力、これこそ曇鸞によって浄土の教えに持ち込まれた画期的な対立軸です。五濁の時代にわれらが救われるのは自力によってではなく、ただ弥陀の本願力という他力によるということ、これを明らかにしてくれたのが曇鸞です。そして親鸞は「釈迦牟尼仏、王舎城および舎衛国にましまして大衆のなかにして無量寿仏の荘厳功徳をときたまふ。すなはち仏の名号をもて経の体とす」という曇鸞のことばに浄土三部経、とりわけ『大経』の根幹をみてとり、「教巻」において「ここをもて如来の本願をもて経の宗致とす。すなはち仏の名号をもて経の体とするなり」と述べたのです。

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本文2 [『教行信証』精読(その109)]

(7)本文2

 次に曇鸞『浄土論註』からの引用です。

 『論の註』にいはく、「つつしんで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるにいはく、菩薩、阿毗跋致(あびばっち、不退転のこと。阿惟越致と同じ)を求むるに二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道なり。難行道とは、いはく、五濁の世、無仏の時において阿毗跋致を求むるを難とす。この難にいまし多くの途(みち)あり。ほぼ五三をいひてもつて義の意(こころ)をしめさん。一つには外道の相善(しょうぜん、相似の善)は菩薩の法をみだる。二つには声聞は自利にして大慈悲を障(さ)ふ。三つには無顧の悪人、他の勝徳を破す。四つには顛倒の善果よく梵行(ぼんぎょう、清浄な行)を壊(え)す。五つにはただこれ自力にして他力の持(たも)つなし。これらのごときの事、目に触るるにみなこれなり。たとへば陸路の歩行(ぶぎょう)はすなはち苦しきがごとし。易行道とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ず。仏願力に乗じてすなはちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毗跋致なり。たとへば水路に船に乗じてすなはち楽しきがごとしと。この『無量寿経優婆提舎(うばだいしゃ、論のこと)』は、けだし上衍(じょうえん、衍は乗の意味で、上衍で大乗のこと)の極致、不退の風航(ふうこう、風をはらんで航行する船)なるものなり。無量寿はこれ安楽浄土の如来の別号なり。釈迦牟尼仏、王舎城および舎衛国にましまして、大衆のなかにして無量寿仏の荘厳功徳を説きたまふ。すなはち仏の名号をもつて経の体とす。のちの聖者婆数槃頭(ばそばんず、ヴァスバンドゥ、中国で天親とよばれる。玄奘以後は世親とよばれる)菩薩、如来大悲の教を服膺(ふくよう)して、経に傍へて願生の偈を作れり」と。以上 
 注 『大経』と『観経』はマガダ国の王舎城で説かれ、『小経』は舎衛国(コーサラ国)の祇園精舎で説かれた。

 (現代語訳) 『浄土論註』にこうあります、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』によりますと、菩薩が不退転地に至るのに、二つの道があります。一つは難行道、二つは易行道です。難行道といいますのは、仏のいまさぬこの五濁悪世において不退転地に至るのは困難なことです。その困難のいくつかを上げますと、まず仏教外の似非の教えが菩薩の修行を乱すということがあります。二つ目に小乗の声聞道は自利だけを求めて大慈悲を妨げます。三つ目に周りを顧みることのない悪人が修行を邪魔します。四つ目に天・人に生まれることに執着して、仏道を損なうことになります。五つ目にただ自力だけで、他力に支えられることがありません。このようなことはもう言うまでもなく明らかで、たとえて言いますと、陸路を歩いていくのが苦しいようなものです。一方、易行道といいますのは、ただ仏を信じるという因縁を得て、浄土に往生したいと願うことです。仏の本願力に乗ることでただちに浄土に往生することができます。仏力に支えられ、そのまま正定聚になるのです。正定聚とは不退転のことですから、これをたとえていいますと、水路を船でいくのが楽しいようなものです。さてこの『無量寿経優婆提舎』すなわち『浄土論』は、思うに大乗の極地であり、不退転に赴く帆掛け船のようなものです。「無量寿」とは安楽浄土の如来・阿弥陀仏の別号で、釈迦牟尼仏は王舎城や舎衛国においてこの無量寿仏のすばらしい功徳を説いて下さいました。ですから、それらの功徳が詰まった名号こそ浄土の経典のエッセンスと言えます。その後に婆数槃頭菩薩すなわち天親菩薩があらわれ、釈迦如来の大悲の教えを服膺され、経典にそえて願生の偈を造られたのです。

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遇ふて空しくすぐるものなし [『教行信証』精読(その108)]

(6)遇ふて空しくすぐるものなし

 未知のものに遇い、どうして「ああ、これだ、これを待っていたのだ」と思えるのか。考えられる答えはひとつです。実は、遠いむかしにすでに遇っているのです。ところが、それをすっかり忘れてしまっている。忘れてしまったこと自体を忘れているのです。ですから、これまで遇ったことがないと思うのですが、実はすでに遇っているのです。だからこそ、あるときそれを思い出して、「あゝ、これだ、これを待っていた」と思うのです。まったく同じことをプラトンが言っています。ぼくらはどうして美しいものを見て、「あゝ、美しい」と思うのだろうか、と。
 美しいとはどういうことか、美しいものとそうでないものとを見分けるにはどうしたらいいか、などということを誰からも教わった覚えはないのに、どうして美しいものを「あゝ、美しい」と感嘆することができるのか。プラトンは答えます、「それは、この世に生まれてくる前に、美しさの原型(これをプラトンはイデアとよびます)を目の当たりにしていたのだ。ところがこの世に生まれてくるときに、それをすっかり忘れてしまったのだ」と。そして美しいものに出あったとき、すっかり忘れていた美のイデアを思い起こして、「あゝ、なんて美しいのか」と感嘆するのだと。
 本願力に遇うのも同じです。これまで遇ったことがないのに、「あゝ、遇えた、これをずっと待っていた」と思うのは、実は遠いむかしに(前世に?)本願力に遇っていたからに違いありません。そして遠いむかしにすでに本願力に遇っていたということは、それはもうずっと自分の中にありつづけているということに他なりません。それはもうこころの奥深くに届いているのです。ただそれをすっかり忘れてしまって、そんなものが自分の中にあるなどと思いもしない。ところがある日突然それを思い出すのです。これが本願力に遇うということで、そのときもうとうのむかしに遇っていたことに気づきます。遇ひがたくして「いま」遇ふことをえたのですが、実は「すでに」遇ふことができていたのです。
 安楽国に生ぜんと願ずるのは「いま」ですが、それに先立ち「すでに」そのように願われていたということです。そして「すでに」そのように願われているということは、その願いはもう成就されているということに他なりません。

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遇うということ [『教行信証』精読(その107)]

(5)遇うということ

 そのことをピタッと言い当てているのが第2の文、「仏の本願力を観ずるに遇ふて空しくすぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」です。
 仏の本願力に「遇ふ」という言い方がされていること、これは親鸞に並々ならぬ印象を与えたに違いありません。その反映は『教行信証』の「序」にはっきり見て取ることができます。「ああ、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、とをく宿縁を慶べ」、「ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしきかな、西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」といったことばで、仏の本願力に遇うことができた喜びを精一杯謳いあげています。
 仏の本願力は「こちらから」会いたいと思って会えるものではありません。「むこうから」やってくる本願力に「たまたま」遇うのです。
 「会う」と「遇う」。あらためてその違いを確認しておきますと、何かに「会う」ためには、それが何であるかをおぼろげにでも知っていなければなりません。何も知らないものに会おうとするのは漆黒の闇に向かって鉄砲を放つようなもので、徒労に終わります。ですから、何かに「会おう」とするなら、事前にできるだけ相手のことを知る努力をしなければなりません。ところが何かに「遇う」ときは、遇うまでそれが何であるかをまったく知りません。遇ってはじめて「ああ、遇えたのだ」と気づくのですから、相手のことを知りようがないのです。未知のものに「遇う」のです。そして遇ったとき「ああ、これだ、これにようやく遇えたのだ」と思う。
 これは考えれば考えるほど不思議です。どうしてこれまで遇ったこともないものに遇うことができるのか。どうして未知のものなのに「ああ、これだ」と思えるのか。

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願うより前に願われている [『教行信証』精読(その106)]

(4)願うより前に願われている

 『浄土論』は紛れもなく天親が弥陀の浄土の荘厳を讃嘆し、そこに往生することを願ってあらわした書物です。願生の詩です。そしてその詩をみずから解説するなかで、浄土へ往生しようとすれば、五念門を一つひとつクリアしていかなければならないと説いています。ところがそれを読んでいくうちに、われらが五念門をクリアしなければならないのではなく、すでに法蔵菩薩がそれを成し遂げてくれていると思えてくるのです。五念門はわれらに「課されている(aufgegeben)」のではなく、すでに「与えられている(gegeben)」ということです。
 曇鸞の教えてくれるところによれば、「安楽国に生ぜんと願ず」ことの中に礼拝門・讃嘆門・作願門が含まれており、そしてそれによりそれぞれ近門・大会衆門・宅門に入ることができるのです。近門に入るということは「安楽世界に生ずること得」ることであり、大会衆門に入るとは「大会衆(浄土の仲間)の数に入ること得」ること、そして宅門に入るとは「蓮華蔵世界に入ることを得」ることに他なりません。つまり「安楽国に生ぜんと願ず」ことで、ただそれだけでもう安楽国に生まれることができ、浄土の仲間の一員となるということです。これは途方もないことと言わなければなりません。
 ぼくらが願うことは、願うだけでもうそれが実現するなどということはありません。願わなければ実現しませんが、願うだけでは実現しません、それにふさわしい努力が求められます。ところが「安楽国に生ぜんと願」うだけで、もうそれだけで「安楽世界に生ずることを得」るというのです。どうしてそんな途方もないことが言えるのか。答えはひとつです。ぼくらはもうすでに安楽世界に生じているのです。これまではそのことに気づいていなかっただけで、もうとうの昔から安楽世界の中にいたのです。安楽国に生まれたいと願うだけで安楽国に生まれることができるということは、その願いをもつとき、もうずっと前から安楽国に生まれていることに気づくということです。
 ぼくらが往生を願うには違いありませんが、それに先立ってすでに往生が願われていて、その願いはとうの昔に成就していることに気づくのです。

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五念門と五功徳門 [『教行信証』精読(その105)]

(3)五念門と五功徳門

 天親の次に取り上げられる曇鸞は『浄土論』の注釈書である『浄土論註』を著し、そこにおいて『浄土論』冒頭の「世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命し奉りて、安楽国に生ぜんと願ず」という一文のなかに五念門のなかの礼拝門、讃嘆門、作願門の三つが含まれていると述べています(詳しくは少し先の『浄土論註』のその箇所を参照)。そしてその文の後につづく部分が観察門であることは誰の目にも明らかであり、さらに、これらの行はすべて天親みずからの利益のためではなく、衆生利益のためであるという意味で回向門にあたりますから、この書物全体が五念門の行であるということになります。
 そして第3の文にありますように、「五門の行を修して自利利他」することにより、五功徳門が成就され、「すみやかに阿耨多羅三藐三菩提を成就する」ことになります。五功徳門といいますのは、第1が近門(ごんもん)、第2が大会衆門(だいえしゅもん)、第3が宅門、第4が屋門、そして第5が園林遊戯地門(おんりんゆげじもん)とよばれ、五念門の行が成就することに応じて、次第に往生の旅が進展していくということです(近門においてすでに「かの国に生ぜんとなすをもつてのゆゑに、安楽世界に生ずることを得」と述べられていますように、この五功徳門はすべて往生の旅のなかにあります)。そして最終的に「阿耨多羅三藐三菩提を成就する」ことになります。
 冒頭で「安楽国に生ぜんと願」い、五念門を修し五功徳門を成就する菩薩たちを仰ぎ見ていたはずの天親が、この書物を読んでいく中で、いつの間にか自らが菩薩として往生の旅のなかにいるように感じられます。そしてそこからさらに不思議なことに天親が法蔵とダブって見えてくるのです。『浄土論』を語っているのは天親のはずなのに、法蔵自らが語っているかのように思えてくる。「菩薩は四種の門にいりて、自利の行成就したまへり。しるべし。菩薩は第五門にいでて回向利益他の行成就したまへり。しるべし。菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他してすみやかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することをえたまへり」という文の菩薩というのは法蔵菩薩ではないかと思えてくるのです。

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『浄土論』という書物 [『教行信証』精読(その104)]

(2)『浄土論』という書物

 『浄土論』の正式名称は『無量寿経優婆提舎願生偈』で、無量寿経の教えにのっとり、浄土往生の願いをうたい上げる書ということです(優婆提舎とは「論」と訳され、経典の教えについて論じる書の意)。前半の「願生偈」において、浄土の相を、その国土、阿弥陀仏、そして菩薩衆のそれぞれについて讃嘆して、そこへの往生を願い、そして後半の「長行(じょうごう、散文のこと)」で、それをみずから解説して、菩薩は五念門(五種類の行)によって、五功徳門という果を得ることができることを説いています。
 ここに引用されているのは三つの文で、第1の文「われ修多羅真実功徳相によりて、願偈総持をときて、仏教と相応せり」は、『浄土論』冒頭の「世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命し奉りて、安楽国に生ぜんと願ず」につづく文であり、この書を著す意図を明らかにしています。第2の文「仏の本願力を観ずるに遇ふて空しくすぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」は、「願生偈」のなかに阿弥陀仏を讃える偈文の最後に出てくるもので、親鸞はこの文を『浄土論』の核心にあると捉え、さまざまなところでこれを取り上げています。そして第3の文「菩薩は四種の門にいりて、自利の行成就したまへり。しるべし。菩薩は第五門にいでて回向利益他の行成就したまへり。しるべし。菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他してすみやかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することをえたまへるがゆゑに」は、「長行」の最後(したがって全体の最後)にあるもので、自利の行と利他の行とが一体となって仏の悟りに至ることを述べて締めくくっています。
 さてこの書物を読むとき、いつも不思議な感じにさせられますのは、これを書いている天親はどの位置にいるのだろう、ということです。冒頭で「安楽国に生ぜんと願ず」と言っていることからしますと、「これから」安楽国に生まれたいと思い、そのために礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の五念門を修めようとしていると思われます。ところが、読んでいるうちに、五念門の行はすでに成就して、その果である五功徳門をえているのではないかと思えてくるのです。「もうすでに」安楽国に往生していると。

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本文1 [『教行信証』精読(その103)]

          第9回 遇ふて空しく過ぐるものなし

(1)本文1

 龍樹『十住論』につづいて、天親『浄土論』からの引用です。

 浄土論にいはく、「われ修多羅(しゅたら、「スートラ」、経のこと。ここでは浄土三部経)真実功徳相によりて、願偈総持(がんげそうじ、願偈とは『浄土論』前半の「願生偈」のこと、総持とは「陀羅尼」のことで、教えのエッセンスが収まった章句)を説きて、仏教と相応せりと。仏の本願力を観ずるに、遇(もうお)うて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」と。
 またいはく、「菩薩は四種の門(五念門のなか、礼拝門、讃嘆門、作願門、観察門)に入りて自利の行成就したまへりと。知るべし。菩薩は第五門(五念門の第五、回向門。自分の修めた功徳を衆生に振り向け、ともに浄土往生を願うこと)に出でて回向利益他の行成就したまへりと、知るべし。菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他してすみやかに阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏の無上のさとり)を成就することを得たまへるがゆゑに」と。抄出

 (現代語訳) 浄土論にこうあります、「わたしは浄土三部経の真実の教えにもとづき、願生偈をあらわし、仏の教えにしたがいたいと思います。弥陀仏の本願力に遇うことができますと、これまでのように迷いの世界を空しく過ぎることはありません。すみやかにすばらしい功徳の宝海に満たされるのです」と。
 またこうも言われます、「菩薩は礼拝・讃嘆・作願・観察の自利の行を成し遂げられました。そしてさらに第五の門を出て、自らの功徳を衆生に廻向し利他の行を成し遂げられたのです。このようにして菩薩は五つの自利および利他の行を成就して仏の無上の悟りをえられたのです」と。

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即の時に必定にいる [『教行信証』精読(その102)]

(15)即の時に必定にいる

 阿弥陀仏を讃える龍樹の偈文はかなりのボリュームですが、親鸞はそこから飛び飛びに引用しています。偈で詠われている内容は多岐にわたりますが、親鸞にとってその核心は「人よくこの仏の無量力功徳を念ずれば、すなはちの時に必定にいる(即時入必定)」という一節にあると思われます。それは、親鸞が「正信偈」において龍樹を讃えて「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然にすなはちのとき必定にいる(憶念弥陀仏本願、自然即時入必定)」と詠っていることからもうかがえます。多少ことばは違うものの、言っていることはぴったり重なります。
 龍樹の偈文では「この仏の無量力功徳を念ずれば」と言われ、「正信偈」では「弥陀仏の本願を憶念すれば」と言われます。この「念ずれば」も「憶念すれば」も、ぼく流に言い換えれば「気づけば」ということで、弥陀の本願・名号が聞こえてくればということに他なりません。あるときふと弥陀の本願・名号が聞こえてきて(これまたぼく流には「帰っておいで」と聞こえてきて)、そのときです、「すなはちの時に必定にいる」。親鸞がこの文から現生正定聚を読み取ったのは疑えないところです。
 あらためて確認しておきますと、必定とは「必ず仏となることが定まる」ということであり、正定聚とは「正しく仏となることに定まった仲間たち」ということですから、両者は同義です。弥陀の本願・名号に遇ったそのとき(すなはちの時)正定聚となる、ここに親鸞浄土教のエッセンスがあることに異論はないでしょう。親鸞は『大経』からそのことを読み取り(聞き取り)、それを龍樹のこの文で裏づけられたと感じて歓喜踊躍したに違いありません。正定聚となるのは(往生がはじまるのはと言いかえることができますが)、いのち終わってからのことではなく、本願・名号が聞こえたそのときであるということを龍樹に同意してもらったのです。
 「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」という『歎異抄』冒頭の一文はその喜びをうたい上げています。

                (第8回 完)

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本文5 [『教行信証』精読(その101)]

(14)本文5

 龍樹『十住論』の最後は、その阿弥陀仏を讃える偈文です。

 偈をもつて称讃せん。無量光明慧、身は真金の山のごとし。われいま身口意をして、合掌し稽首し礼したてまつると。乃至 人よくこの仏の無量力功徳を念ずれば、即の時に必定に入る。このゆゑにわれつねに念じたてまつる。乃至 もし人、仏にならんと願じて、心に阿弥陀を念じたてまつれば、時に応じてために身を現じたまはん。このゆゑにわれ、かの仏の本願力を帰命す。十方のもろもろの菩薩も、来りて供養し法を聴く。このゆゑにわれ稽首したてまつると。乃至 もし人善根を種ゑて疑へば、すなはち華開けず。信心清浄なるものは華開けてすなはち仏を見たてまつる。十方現在の仏、種々の因縁をもつて、かの仏の功徳を嘆じたまふ。われいま帰命し礼したてまつると。乃至 かの八道1の船に乗じて、よく難度海を度す。みづから度し、またかれを度せん。われ自在人を礼したてまつる。諸仏無量劫にその功徳を讃揚せんに、なほ尽くすことあたはじ。清浄人を帰命したてまつる。われいままたかくのごとし。無量の徳を称讃す。この福の因縁をもつて、願はくは仏、つねにわれを念じたまへ」と。抄出
 注1 八聖道のこと。正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定。

 (現代語訳) 偈で称讃したいと思います。阿弥陀仏は無量の光の仏であり、その身は黄金の山のようです。わたしはこの仏を身口意をあげて合掌し礼拝したてまつります。(中略)この仏の無量の本願力を信じれば、ただちに必定に入ることができます。ですからわたしはこの仏をつねに信じたてまつります。(中略)もし人が仏になろうと願い、阿弥陀仏を信じれば、そのときに阿弥陀仏はその身をあらわしたまう。ですからわたしはこの仏の本願力に帰命します。あらゆる世界の無量の菩薩たちも来たってこの仏を供養しその法を聞いています。ですからわたしはこの仏を礼拝したてまつります。(中略)もし人がさまざまな善をつんで仏になろうとしても、そこに疑いがありましたら華が開くことはありません。まじりけのない信心があってはじめて華が開き仏と遇うことができるのです。いま十方世界におわします仏たちはさまざまな因縁でこの仏の功徳を讃嘆されています。ですからわたしはこの仏に帰命し礼拝したてまつります。(中略)八正道の船に乗ることでこの迷いの海を渡ることができますが、この仏はみずから渡り、また衆生を渡してくださいます。ですからわたしはこの仏を礼拝したてまつります。諸仏がどれほどの時間をかけてこの仏の功徳を讃嘆しようともし尽くせるものではありません。ですからこの清浄の仏を帰命したてまつるのです。わたしもまたそのようにこの仏の無量の徳をほめたてまつります。願わくはこの仏がわたしのことを護念してくださいますように。

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