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本文3 [『教行信証』精読2(その38)]

(6)本文3

 いま所修の念仏三昧に約するに、いまし仏力をたのむ。帝王(たいおう)に近づけばあへておかすものなきがごとし。けだし阿弥陀仏、大慈悲力・大誓願力・大智慧力・大三昧力・大威神力・大摧邪力(だいさいじゃりき)・大降魔力・天眼遠見力・天耳遙聞力・他心徹鑒力(たしんてっかんりき)・光明徧照摂取衆生力ましますによりてなり。かくのごときらの不可思議功徳の力まします。あに念仏の人を護持して、臨終の時に至るまで障礙なからしむることあたはざらんや。もし護持をなさずは、すなはち慈悲力なんぞましまさん。もし魔障を除くことあたはずは、智慧力・三昧力・威神力・摧邪力・降魔力、またなんぞましまさんや。もし鑑察(かんざつ)することあたはずして、魔、障(さわり)をなすことをかぶらば、天眼遠見力・天耳遙聞力・他心徹鑑力、またなんぞましまさんや。経にいはく、阿弥陀仏の相好の光明あまねく十方世界を照らす。念仏の衆生をば摂取してすてたまはずと。もし念仏して臨終に魔障をかぶるといはば、光明徧照摂取衆生力、またなんぞましまさんや。いはんや念仏の人の臨終の感相、衆経より出でたり。みなこれ仏のみことなり。なんぞ貶(へん)して魔境とすることを得んや。いまために邪疑を決破す。まさに正信を生ずべし」と。已上彼文

 (現代語訳) いま修めるところの念仏三昧は他力をたのむものです。帝王の近くにいれば誰も悪をなしえないようなものです。阿弥陀仏には大慈悲力、大誓願力、大智慧力、大三昧力、大威神力、大摧邪力(邪を砕く力)、大降魔力、天眼遠見力、天耳遙聞力、他心徹鑒力(他の人の心を見通す力)、光明徧照摂取衆生力(光明を放ち遍く衆生を摂取する力)などの不可思議な力がありますから、どうして念仏の人を臨終にいたるまで魔障から護らないことがありましょうか。もし護らないとすれば慈悲力がないということです。もし魔障を除かないとすれば智慧力、三昧力、威神力、摧邪力、降魔力があると言えるでしょうか。もしすべてを見抜くことができず魔障を受けるようなことがあれば、天眼遠見力、天耳遙聞力、他心徹鑒力があると言えるでしょうか。観経には、阿弥陀仏の光明は遍く十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまわずと説かれています。もし念仏して臨終に魔障にあうとしますと、光明徧照摂取衆生力があると言えるでしょうか。まして念仏の人が臨終において来迎の相を感じることは浄土の経典に説かれていることであり、仏のみことに他なりません。どうしてそれを貶めて魔のしわざとすることができるでしょう。いま誤った疑いを退けました。まさに正しい信心をもつべきです。已上は慶文の正信法門の文です。

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魔の仕業 [『教行信証』精読2(その37)]

(5)魔の仕業

 ここで話題となっている魔とは修行中の行者に現れてはその妨げをなす一種の幻覚をさします。引用文のなかに、観経に説かれる臨終の来迎の超自然的なありようは魔の仕業ではないかという問いが出てきますが、この言い分は一理あると言わなければなりません。臨終という非常のときにあたり特別な幻覚が現れるのは「さもありなん」と頷けるところがあります。そして浄土の教えには、臨終の来迎の場面に限らず、神秘的な記述が満ち満ちていますが(極楽浄土のさまざまな荘厳など)、それらも魔のなせるわざではないかという疑いが起ってくるかもしれません。
 忘れられない思い出があります。高校の社会科教師たちの研修会で親鸞の宗教について語ってくれと言われ、南無阿弥陀仏はわれらが称える(称名)より前にむこうから聞こえてくるもの(聞名)という趣旨の話をしました。ぼくが具体例として語ったのは、散歩道で見知らぬ方から思いがけず「こんにちは」の声をかけてもらったのが、南無阿弥陀仏と聞こえたという自分のささやかな経験ですが、そのとき一人の先生が質問に立たれました、「南無阿弥陀仏と聞こえたのは一種の幻覚ではないかと言われたら、どう答えられますか」と。ぼくは答えに窮してしまいました。
 なるほど、ある方の口から出た「こんにちは」が南無阿弥陀仏と聞こえたなどと言われたら、それは幻聴ではないかと疑うのが普通です。でもぼくとしてはそれは幻聴でも何でもありません。その方が「こんにちは」と言っているのに、その声そのものが南無阿弥陀仏と聞こえたとしたら、これは幻聴でしょう。でも「こんにちは」の声はちゃんと「こんにちは」と聞こえているのです。ただ、その「こんにちは」を通して南無阿弥陀仏の声が聞こえてきた。さてしかしこの微妙な違いをどう説明すればいいか、ぼくはその場に立ち尽くすのみでした。
 先の文にはつづきがあります。それを読んで幻聴(魔)とどう違うかについて考えたいと思います。

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本文2 [『教行信証』精読2(その36)]

(4)本文2

 元照の『観経義疏』からの引用がつづきます。

 またいはく、「いま浄土の諸経にならびに(ことごとく)魔をいはず。すなはち知んぬ、この法に魔なきこと明(あき)らけしと。山陰の慶文法師の正信法門にこれを弁ずること、はなはだ詳らかなり。いまためにつぶさにかの問を引きていはく、あるいは人ありていはく、臨終に仏・菩薩の光を放ち、台(うてな)を持したまへるを見たてまつり、天楽異香(いきょう)来迎往生す。ならびにこれ魔事なりと。この説いかんぞや。答へていはく、首楞厳(しゅりょうごん、『首楞厳経』のこと。首楞厳三昧を説く)によりて三昧を修習(しゅじゅう)することあり、あるいは陰魔(おんま、五陰魔のこと。五陰は五蘊と同じで、人間を構成する色・受・想・行・識の五要素)を発動す。魔訶衍論(まかえんろん、馬鳴の『大乗起信論』)によりて三昧を修習することあり。あるいは外魔(天魔)を発動(ほつどう)す。止観論(天台智顗の『魔訶止観』)によりて三昧を修習することあり、あるひは時魅(昼夜十二時に、男女禽獣の姿を取り修行者を悩ます)を発動す。これらならびにこれ禅定を修する人、その自力に約してまず魔種あり。さだめて撃発(ぎゃくほつ)をかぶるがゆゑにこの事を現ず。もしよくあきらかにしりておのおの対治を用ゐれば、すなはちよく除遣せしむ。もし聖の解(しょうのさとり、己を聖者とうぬぼれること)をなせば、みな魔障をかぶるなりと。上にこの方(この世界)の入道(さとりを得る)をあかす、すなはち魔事を発す。

 (現代語訳) また元照の『観経義疏』にこうあります。浄土の諸経典はどれも魔については述べられていません。ここから浄土の教えに魔がないことは明らかです。山陰の慶文法師は「正信法門」にそのことを詳しく説いていますので、いまその中の問答を引いてみましょう。ある人は、臨終に仏菩薩がひかりをはなちながら台を持ち、天の音楽が響き、よき香りが漂うなかを来迎するのを見るというのは、魔の仕業ではないかと言いますが、この考えはどうでしょう。お答えします。首楞厳三昧を修めるときには、五蘊から魔が現れることがありますし、大乗起信論によって三昧を修めるときには、天魔が現れることがあります。また魔訶止観によって三昧を修めるときには時刻によりかわるがわる魔が現れることがあり、これらはみな自力で禅定を修めようとするところに魔が現れる種があり、それが実際に禅定のなかに出てくるということです。そのわけをよくわきまえて対処すれば、魔を制することができます。しかし自分は聖者であるとうぬぼれたりすれば、みな魔障を蒙ります。以上はこの世界において自力で悟りを得ようとする場合で、かならず魔障があります。

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信心がそのまま往生 [『教行信証』精読2(その35)]

(3)信心がそのまま往生

 自力が自力でありながら、そっくりそのまま他力のなかであるとしますと、そのことを信じるのもまた他力ということになります。
 すべては他力のなかであると言いながら、そうと信じるのは自力であるというのでは平仄があいません。信じるのはたしかにわたしです。わたしが信じなければ信じることの幕があきません。でもわたしが信じるのではない。何を言っているのだ、気は確かかと言われるかもしれません。言い直しましょう。本願を信じることは「わたしにおいて」起こります。それは天地がひっくり返っても確かです。でも「わたしが」信心を起こすのではありません、気づいたら「わたしにおいて」すでに起っているのです。
 さて問題は「信心が往生の因」です。気づいたらすでに「わたしにおいて」起っている信心が往生の因であるというのはどういうことでしょう。
 気づいたときにはすでに信心が起こっているのですから、そのときには往生もまたすでに起こっているということです。原因としての信心があり、しかるのちに結果としての往生があるのではなく、信心がそのまま往生であるということです。親鸞が手紙のなかで「信心のさだまるとき往生またさだまる」(『末燈鈔』第1通)と言っているのはその意味に違いありません。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であると信じたとき、もう往生がはじまっているのです。
 「賢愚をえらばず、緇素をえらばず、修行の久近を論ぜず、造罪の重軽をとはず、ただ決定の信心」さえあれば、そのときにはもう往生できているのです。浄土の教えが「常途にことなる」とはそういうことです。信心を得られたそのときにもう往生がはじまっているのですから、それ以上なにを望むことがあるでしょう。「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(同)です。

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ひとり常途にことなる [『教行信証』精読2(その34)]

(2)ひとり常途にことなる

 さて元照がこの文で言わんとしているのは、浄土の教えが「ひとり常途にことなる」ことです。どこが異なるかと言いますと、賢愚に関係なく、緇素に関係なく、修行に関係なく、造罪に関係なく、ただただ信心があるかどうかにだけ関係するという点です。
 なるほどこれでは「めにみ、みみにききて、ことに疑謗を生じ」るのもやむを得ないと思えてきます。元照自身、律宗の僧として過ごしてきた過去を振り返ってみれば、浄土の教えを「めにみ、みみにききて、ことに疑謗を」抱いてきたのではないでしょうか。どれほど罪を造ろうが、ただ弥陀の本願を信じるだけで往生でき、成仏できるなどという教えはいかにも「常途にことなる」と思えたに違いありません。ところが病を機に、一転して浄土の教えに帰することになったのです。
 さてしかし、「ただ決定の信心」が「すなはちこれ往生の因種」であるとすることのどこに「常途にことなる」ところがあるのでしょう。
 信心が往生の因と言われますと、そうか、われらが信心することが原因となって、往生という結果がもたらされるのか、と思います。そしてそこから、往生するためにはしっかりした信心が必要なのだと考えるものでしょう。さあしかし、この「しっかりした信心」が曲者で、これでは「しっかり修行することにより悟りに至れる」とするのと同じ構図になります。浄土の教えが「常途にことなる」のは、決定の信心のありようが、並の信心とは根本的に異なるということです。
 しかし、どのように?
 弥陀の本願を信じるとは、われらは「わたしのいのち」を生きているが、実はそれがすべて「ほとけのいのち」のなかではからわれていると信じることです。前につかった譬えをもう一度持ち出しますと、ごく普通の街中で普通に日常生活をしていると思っていたら、それが巨大なクルーズ船のなかのことであったと気づくようなものです。自力で生きているには違いないが、それがそっくりそのまま他力のなかのことであると気づく、これが本願を信じるということです。大事なことは、この「信じる」ということ、あるいは「気づく」ということもまた他力のなかにあるという点です。

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本文1 [『教行信証』精読2(その33)]

          第3回 ひとり常途にことなる―元照など

(1)本文1

 これまで傍依の諸師、法照・憬興・張掄・慶文とつづいて引用されてきましたが、次は元照(がんじょう)の『観経義疏』からです。

 律宗の祖師、元照のいはく、「いはんやわが仏大慈、浄土を開示して慇懃(おんごん)にあまねく諸大乗(もろもろの大乗経典)を勧嘱(かんぞく、示して勧める)したまへり。目に見、耳に聞きて、ことに疑謗を生じて、みづから甘く沈溺(ちんにゃく)して、超昇をねがはず、如来説きて憐憫(れんびん)すべきもののためにしたまへり。まことにこの法のひとり常途(じょうず)に異なることを知らざるによりてなり。賢愚をえらばず、緇素(しそ、黒と白。黒衣の僧侶と白衣の俗人)をえらばず、修行の久近(くごん)を論ぜず、造罪の重軽を問はず、ただ決定の信心すなはちこれ往生の因種ならしむ」と。以上

 (現代語訳) 律宗の祖師、元照はこう言われます。いわんやわが釈迦如来は、大慈の心から浄土の教えを開いてくださり、丁寧に諸大乗経典のなかに示してお勧めくださいました。ところが人々はそれを見たり聞いたりしては疑いの心を起こし謗ったりして、迷いのなかに沈みこんだまま、浮びあがろうともしません。如来はこれをみて「哀れなるかな」と言われます。どうして人々が疑いの心を起こすかと言いますと、この教えは普通の法門とは大きく異なることを知らないからです。この教えは賢愚を選びません、僧俗を選びません、修行の長短を選びません、罪の軽重を選びません、ただただ信心一つが決定していることが往生の因となるのです。

 元照とは宋代の僧で、はじめ天台を学びますが、律宗に転じ一派をなし、多くの弟子を育てます。しかし、晩年に病を得たことを機に浄土教に帰することになり、『観経義疏』、『阿弥陀経義疏』を著します。元照を含め、これまで出てきました傍依の諸師はみな他宗派の人ですが(居士の張掄をのぞき、法照は律宗、憬興は法相宗、慶文は天台宗)、最後は浄土教に落ちついているところをみますと、浄土の教えには何かそのようにさせる力があると言わざるをえません。

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弥陀の名号とは [『教行信証』精読2(その32)]

(15)弥陀の名号とは

 ここで「真応の身」と言われ、「慈悲海」と言われ、「誓願海」と言われ、「智慧海」と言われ、「法門海」と言われているのは、みな「ほとけのいのち」のことでしょう。「ほとけのいのち」は慈悲の海であり、誓願の海であり、智慧の海であり、そして真理の海であり、その海のなかに「わたしのいのち」は生きているのです。そして弥陀の名号とは「ほとけのいのち」の慈悲と誓願と智慧と真理のすべてを南無阿弥陀仏の六文字におさめたものに他なりません。仏名は「真応の身よりして建立せる」とか「慈悲海よりして建立せる」等々と言われるのはそのことです。
 南無阿弥陀仏とは「ほとけのいのち」の声であり、それは少し前のところで親鸞が明らかにしてくれたように「招喚の勅命」です。ひらたく言えば「そのまま帰っておいで」の声。「ほとけのいのち」から「そのまま帰っておいで」と呼びかけられているのが南無阿弥陀仏です。ぼくらは「ほとけのいのち」という海のなかに生きているにもかかわらず、そのことに気づかずに、ただひたすら「わたしのいのち」を生きていると思い、苦しんでいる。そこに「ほとけのいのち」から「帰っておいで」の声がかけられるのです。それは「もうすでに『ほとけのいのち』のなかにいるじゃないか。そのことに早く気づきなさい」という意味に他なりません。
 なぜ弥陀の名号か。この問いはさまざまなかたちで投げかけられます。ぼくを知る人がよく「どうして親鸞?」と問います。それにどう答えたらいいのか、いつも困ってしまうのですが、あえてひと言でいえば「ぼくは親鸞から“いのち”の声を聞いているだけです」ということです。別に親鸞でなくてもいいのです、そこから“いのち”の声が聞こえれば。でもぼくの場合、親鸞を読むことで、そこから“いのち”の声が聞こえてくるのです、「そのまま帰っておいで」と。南無阿弥陀仏は「そのまま帰っておいで」という“いのち”の声に他なりません。

                (第2回 完)

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本文5 [『教行信証』精読2(その31)]

(14)本文5

 次は山陰(慶文)の文です。

 台教(天台宗)の祖師、山陰(地名)、慶文(けいぶん)法師のいはく、「まことに仏名は真応の身(報身のこと)よりして建立せるがゆゑに、慈悲海よりして建立せるがゆゑに、誓願海よりして建立せるがゆゑに、智慧海よりして建立せるがゆゑに、法門海よりして建立せるがゆゑに、もしただもつぱら一仏の名号を称するは、すなはちこれつぶさに諸仏の名号を称するなり。功徳無量なればよく罪障を滅す。よく浄土に生ず。なんぞかならず疑を生ぜんや」と。以上

 (現代語訳) 天台宗の祖師、山陰・慶文法師はいわれます、弥陀の名号は報身より建立されたのですから、大慈悲の海より建立されたのですから、誓願の海より建立されたのですから、智慧の海より建立されたのですから、真理の海より建立されたのですから、ただ弥陀の名号一つを称えるだけで、あらゆる仏の名号を称えることになり、その功徳たるや限りなく、よく罪障を滅してくれます。かならず浄土に往生できること、疑いの入る余地はありません。

 この文がどんな文脈のなかに置かれているのか分かりませんが、親鸞がこれを取り上げたのは、ただ阿弥陀仏の名号を称えることで浄土に往生することができるのはどうしてかという疑問に答えているからでしょう。なぜ弥陀の名号に特別な地位が与えられるのかというもっともな疑問です。それに対して慶文は、弥陀の名号は「真応の身よりして建立せるがゆへに、慈悲海よりして建立せるがゆへに、誓願海よりして建立せるがゆへに、智慧海よりして建立せるがゆへに、法門海よりして建立せるがゆへに」と答え、だからこの名号を称えることであらゆる仏の名号を称えることになり、かならず往生できるのだと言うのです。

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能動と受動 [『教行信証』精読2(その30)]

(13)能動と受動

 国分功一郎氏の『中動態の世界』は刺激的な本で、さまざまな示唆を与えてくれますが、いまの問題を考える上でも大事なヒントが得られます。中動態とは何かをざっくりと整理しておきますと、インド=ヨーロッパ語族に属する古い言語(古代ギリシャ語やサンスクリット)において、能動態と受動態の対が現れるより前に、その起源として中動態とよばれる態があり、そこから能動態と受動態が生まれてきたというのです。そして中動態はいつしか消えてしまった。中動態が消えてしまった後に生きるぼくらは能動態と受動態の対しか知りませんから、何ごとも「する」か、さもなければ「される」と考えてしまうわけですが、さてこの対ではうまく説明できないことがいろいろある。
 著者はその一例として「かつあげ」を上げます。誰かに脅されて金を渡すとき、盗まれるのではなく自分で金を渡すのですから、その点では能動と言えますが、しかし自発的にではなく脅されて仕方なく渡すという意味では受動です。このような場合、「する」か「される」かのどちらかを決めるのは難しい。どちらもと言わざるをえません。あるいは昔見たドラマ「わたしは貝になりたい」の主人公は、上官から捕虜を銃剣で刺殺することを命じられますが、この場合も自分で銃剣を突き刺すわけですから、あくまで能動ですが、しかし上官の命令で止むを得ずしているという点では受動です。これも「する」のか「される」のか、どちらだと問われても答えに窮します。
 さて「能動と受動」の対は「自力と他力」の対と重なります。自力とは何ごとかを能動的にすることであり、他力は逆に何ごとかを受動的にされることです。そして普通は「するか、さもなければされる」と受け取られるように、「自力か、さもなければ他力」と「or」の関係でとらえられます。他力というのは自力ではないことであり、能動ではないこととされ、かくして他力本願はしばしば非難のことばとなります。しかし「能動と受動」が「or」の関係ばかりではなく「and」の関係ととらえなければならない場合があるように、「自力と他力」も「and」の場合があります。親鸞が「他力といふは、如来の本願力なり」というのは、そのような場合です。ぼくらは間違いなく自力の世界に生きていますが、それがそっくりそのまま本願他力の世界のなかのことです。

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無常と常住 [『教行信証』精読2(その29)]

(12)無常と常住

 浄土の教えには二項対立があふれています。思いつくまま上げますと「難行と易行」、「自力と他力」、「穢土と浄土」、「煩悩と菩提」、「無常と常住」など。それぞれの前項である「難行・自力・穢土・煩悩・無常」は一つに括られ、他項の「易行・他力・浄土・菩提・常住」もまた一つに括られます。浄土の教えはその前項を厭離し、他項を欣求するわけです。このように図式化しますと、すっきりと分かりやすくなりますが、それだけ危険が増すということでもあります。どういう危険かといいますと、それぞれの項目が二つの世界に配属され切り離されるということです。こちらに「難行・自力・穢土・煩悩・無常」の世界があり、あちらに「易行・他力・浄土・菩提・常住」の世界があるというように。
 いま問題となっているのは無常と常住(永劫)のコントラストです。張掄が言うのは、今生は無常の世であり、来生に期待される浄土は常住の世界であるというのに、「衆生またなんのくるしみあればか、みづからすててしかしてせざらんや」ということです。そこで「ねがはくはふかく無常を念じて、いたづらに後悔をのこすことなかれ」と忠告するのです。このように無常と常住は今生と来生に割り振られ、まったく別の世界のこととされます。こちらは無常の世界だが、あちらに常住の世界があるから、はやくこちらからあちらに往こうではないかというのですが、親鸞が伝統的な浄土教から区別されるのはこの点です。親鸞にとって無常の世界と常住の世界は別々にあるのではありません、無常の世界はそのまま常住の世界です。
 無常即常住ということばはありませんが、同じ趣旨のことばとして煩悩即菩提、生死即涅槃があり、親鸞はしばしばこれに言及しています。手近なところでは正信偈に「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃をう(能発一念喜愛心、不断煩悩得涅槃)」とありますし、また「惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ(惑染凡夫信心発、証知生死即涅槃)」とあります。親鸞は、煩悩即菩提、生死即涅槃などは聖道門で言われることだから、浄土門のわれらには関係ないとは言いません。本願を信じたそのときに、煩悩即菩提、生死即涅槃の世界がひろがると言うのです。

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