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カルト [「親鸞とともに」その45]

(6)カルト

冒頭に上げました夢の話に戻ります。仲間たちと一緒にいるにもかかわらず、自分はどうしようもなく「独り」であると感じてしまうという夢ですが、この歳になってこんな夢に苦しめられるのはどういうわけだろうと思います。これはおそらくまだ少年だった頃からこのような孤独感に苦しんできたことが、夢の記憶となっていま蘇ってきているのだろうと思いますが、それがしばしば夢に登場するということは、まだ本願に遇うことができていなかった頃のことを夢のなかで蘇らせることにより、孤独の本質がどこにあるのかを知らしめようとしているような気がします。

頭に浮ぶのがカルトのことです。ぼくが若かった頃、原理研究会というカルトが青年たちにその魔の手を伸ばしていました。いま世間を騒がせているあの統一教会です。校門のところで原理研究会と書かれた幟を手に、下校する高校生を待ち構えて誘ってくる青年がいました。如何にも怪しげに映りましたが、ぼくはその誘いに乗り、彼らが集団生活している一室までついて行ったことがあります。パン屋さんからもらってきた食パンの耳と、八百屋さんからもらってきた野菜くずでつくったスープが出されて驚きました。危ない橋を渡ったものだと思いますが、そんな気になったのは、ぼくの心の底に言いようのない孤独が巣くっていたからに違いありません。

カルトと言えばオウム真理教がその代表格でしょうが、あの事件を起こして解散させられてからも、まだかなりの信者が集団生活をつづけているのは、その生活のなかでしか彼らの心の底に淀む孤独が癒せないからでしょう。生きてきた場のどこでも孤独感に苦しめられ、オウムの集団生活のなかにはじめて心の安らぎを見いだすことができたのですから、もはやそこにしか生きる場がないということです。さてしかし、その集団生活から一歩外に出れば、また孤独に苦しまなければならないというのでは、孤独という病はまったく癒えていないということに他なりません。ただ同じ病を抱える人たちが肩を寄せ合うことで、病を紛れさせているだけと言わなければなりません。


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