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12月20日(月) [矛盾について(その144)]

 中日新聞の文化欄に「ひろさちやのほどほど人生論」という記事がときどき載ります。「誰が仏子か 慈悲はすべての人に」というタイトルがふと目に留まり、読んでみました。そしてどことなく違和感が残りました。今回はそのことを書いておきたいと思います。
 こんな内容です。『法華経』によるとあらゆる人が仏の子(仏子)で、仏はすべての子どもを平等に愛される、優等生の子も劣等生の子も同じように愛されるという話をしたところ、聴衆の一人から、同じ仏子なら、やっぱり劣等生より優等生のほうがいいと発言があり、がっかりしたという趣旨でした。仏の慈悲は優等生よりもむしろ劣等生に向けられると言うのです。
 それに反対したいのではありません。「仏の慈悲は優等生よりも劣等生に」はその通りだと思うのですが、何かが引っかかるのです。それは何かとしばし考えました。ぼくは優等生のほうがいいと言った方の気持ちが分かる様な気がするのです。仏の慈悲はこんな劣等生である自分にも向けられているとするなら、少しでも優等生になりたいと思う、これはごく自然なことです。尊い気持ちです。
 むしろぼくは著者が自分自身をどう見ているのかが気になりました。彼はこんなふうに言います、「わたしたちは、劣等生や怠け者に対して、“あなたも仏子なんですよね。どうか幸せになってください”と思えるようになったとき、自分自身が仏子であるとの自覚を持てるのです」と。
 どうやら著者は自分を劣等生の対極に置いています。その位置から劣等生も仏の子であると見ているのです。そして優等生のほうがいいと言った方に、劣等生は劣等生のままで慈悲を受けることができるのに、優等生でありたいなどと思うのは間違っていると説教しているのです。ここにぼくの違和感があったようです。
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