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6月27日(月) [矛盾について(その328)]

 「悲しい」と泣き崩れている人に「どうして」ということばは届かないでしょう、「ひとりにしておいて」と言われるのがおちです。しばしば経験することですが、悲しさは伝染します。もらい泣きをしてしまうのです。そんなときは「悲しいね」と共感することばをかけることでしょう。でも、もし共感しなければどうか。
 ここには越えることのできない溝があります。
 知ることと知らないこととの間にももちろん溝があります。あることを知る人とそれを知らない人とでは話が通じません。でもこの溝は双方の努力で埋めることができます。知っている人が知らない人に教えてあげればいいのです。教育とはそうした営みでしょう。しかし感じることと感じないことの溝は努力で埋められるものではありません。感じる人が感じない人に教えてあげるということができないのです。
 感じる人は感じ、感じない人は感じない―ここに「ドグマではないか」との疑念が胚胎します。
 そもそも感じることはすべてドグマとも思えます。「ぼくはこう感じる、そこに何の根拠もない、以上終わり」、これはドグマ以外の何ものでもないように見えます。しかし、誰かが「ぼくは悲しい、悲しいから悲しいのだ」と言うとき、「それはドグマにすぎない」と応じることはないでしょう。
 ドグマとは、本来根拠を示さなければならないのに、それを示すことなく主張されるものを指します。つまり知ることについて言われることばです。もともと根拠など示すことができない感じることに相応しいことばではないのです。

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