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3月26日(月) [矛盾について(その601)]

 親鸞は、経典の背後から聞こえてくる声に耳をすましていると言いました。でも、そんなことをしていいのでしょうか。
 もう一度『クルアーン』はアラビア語で書かれたものでなければならないということを想起したいと思います。アラビア語が特別に神聖な言葉だからではありません。ただムハンマドが神から聞いた言葉がたまたまアラビア語であったという理由からです。それを他の言語に翻訳しますと、そこにおのずから訳者の解釈が入ってしまうのです。
 しかし、ここには根本的なアポリアがあります。
 たとえ他の言語に訳さないとしても、『クルアーン』に書かれたことばを日々の生活の中に生かそうとしますと、そこに必ず解釈が必要になってきます。『クルアーン』のことばを、それぞれの具体的な場面に適用しようとしますと、この場合はこうだが、あの場合はこうなるというように、ことばの意味を解釈しなければすまないのです。
 こう考えてきますと、ことばは、それが書かれたもの(文字)であっても、そのうしろから聞こえてくる声を聞き取るものではないでしょうか。ことばとは本質的に声であるということ。そして声はそれぞれの人にそれぞれに伝わります。「お前なんか大嫌いだ」という声が、ある人にはそのまま「お前なんか見たくもない」と聞こえますが、ある人には「ほんとうは好きだよ」と聞こえるかもしれません。声がことばとして誰かに届いたということは、それが届いた人のこころで何らかの意味に解釈されたということです。届けた人からすればとんだ勘違いであるとしても、それはそれで一つの解釈なのです。

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