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12月23日(日) [『歎異抄』を読む(その221)]

 少し前のところで「念仏と暮らし」の問題を考えました。
 念仏は他力の世界ですが、ぼくらは同時に暮らしという自力の世界を生きなければなりません。念仏の世界は「生かしめんかな」の声が聞こえてくる「まことの世界」ですが、自力の世界は「生きんかな」が渦巻く「火宅無常の世界」です。「みなもてそらごと、たわごと」の世界です。
 このコントラストが最も際立って現れるのが宗教弾圧においてでしょう。主上臣下が自分たち念仏者に牙を剥く時、それを「そらごと、たわごと」と他人事のように見ている訳にはいきません。「ただ念仏のみぞまことにて」と澄ましている訳にはいきません。否でも応でも「政治」の渦中に巻き込まれるのです。
 宗教と政治。
 昔の教員仲間と久しぶりに顔を合わせて「やあ、どうしている?」という話になり、ぼくが「いやー、この頃は親鸞にどっぷり浸かってるよ」と言いますと、「へえー?」と意味ありげな顔つきをされることがあります。この「へえー?」には色々なニュアンスが含まれています。
 「デカルトだ、カントだと西洋の哲学に関心があったはずなのに、今は親鸞?」という場合もあるでしょうが、もっと苦い味がするのは「昔は社会の矛盾に敏感に反応して組合運動にも熱を入れていたきみが、今は“南無阿弥陀仏”かい?」という皮肉が込められている時です。

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