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『唯信鈔』にくはしくさふらふ [『末燈鈔』を読む(その198)]

(3)『唯信鈔』にくはしくさふらふ

 親鸞は、そのあたりのことは「『唯信鈔』にくはしくさふらふ。よくよく御覧さふらふべし」としか言いません。これまで『唯信鈔』を書き写してはお送りしていますから、もう一度しっかり読み返してください、ということでしょう。聖覚の『唯信鈔』は法然の『選択集』の勝れたダイジェストと言うべきで、専修念仏の教えのエッセンスを手際よくまとめていますが、その末尾において、いくつかの論題を掲げ、自分の考えを述べています。そのひとつが一念・多念の問題です。
 聖覚はまず一念義の主張を「『経』にすでに『乃至一念』ととけり。このゆへに一念にてたれりとす」と紹介し、それについてこう述べます、「もろもろの大乗の修行をすてて、つぎに一念の義をたてて、みづから念仏の行をやめつ、まことにこれ魔界たよりをえて、末世の衆生をたぶろかすなり」と。この激しいことばから彼の立ち位置がほの見えてきますが、結論的にこう述べます、「一念決定しぬと信じて、しかも一生おこたりなくまふすべきなり」と。
 これを見るだけで聖覚の感性は親鸞とは違うと言わざるをえませんが、親鸞としては「一念にてたれり」への偏執をとどめるために『唯信鈔』を読むことを勧めたのでしょう。
 そして次に「一念のほかにあまるところの念仏」についての論点に進んでいきます。教忍房は「一念にて往生の業因はた」りるから、「一念のほかにあまるところの念仏は、十方の衆生に回向」するべきではないかと思い、それでいいのかを親鸞に確認したのでしょうが、親鸞の答えは微妙です。あなたの言われるのは「さるべきことにてさふらふべし(もっともだと思われます)」と言い、それに続けてこう述べます、「十方の衆生に回向すればとて、二念・三念せんは往生にあしきことゝおぼしめされさふらはゞ、ひがごとにてさふらふべし」と。
 この文がいささか分かりづらい。


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