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第9通 [『末燈鈔』を読む(その203)]

(8)第9通

 第9通に進みます。3段に分け、まず第1段。

 まづ、よろづの仏・菩薩をかろしめまいらせ、よろづの神祇・冥道(みょうどう)をあなづりすてたてまつるとまふすこと、このことゆめゆめなきことなり。世々生々に無量無辺の諸仏・菩薩の利益によりて、よろづの善を修行せしかども、自力にては生死をいでずありしゆへに、曠劫多生(こうごうたしょう)のあいだ、諸仏・菩薩の御すゝめによりて、いままうあひがたき弥陀の御ちかひにあひまいらせさふらふ御恩をしらずして、よろづの仏・菩薩をあだにまふさんは、ふかき御恩をしらずさふらふべし。仏法をふかく信ずるひとをば、天地におはしますよろづの神は、かげのかたちにそへるがごとくして、まもらせたまふことにてさふらへば、念仏を信じたる身にて、天地のかみをすてまふさんとおもふこと、ゆめゆめなきことなり。神祇等だにもすてられたまはず、いかにいはんや、よろづの仏・菩薩をあだにもまふし、おろかにおもひてまいらせさふらふべしや。よろづの仏をおろかにまふさば、念仏を信ぜず、弥陀の御名をとなへぬ身にてこそさふらはんずれ。

 (現代語訳)まず、諸々の仏や菩薩を軽んじたり、諸々の天の神や地の神を侮ったりすることは、決してあってはなりません。これまで数知れない諸仏・菩薩のお力を頼りにさまざまな修行をしてきましたが、自力では生死の迷いから脱出できなかったものですから、また気が遠くなるほど長い間、諸仏・菩薩のお勧めをいただきまして、今遇いがたい弥陀のお誓いにお遇いすることができたのです。その御恩を知らずに、すべての仏や菩薩をあだやおろそかにしますことは、深い御恩が分かっていないということに他なりません。また、諸々の天の神、地の神は、仏法を深く信じるものを、かげのかたちに添うように護ってくださっているのですから、念仏を信じているものが、天の神、地の神を捨てるなどということは、決してあってはなりません。神々ですら捨てることができないのですから、まして諸々の仏や菩薩をあだや疎かにすることができましょうや。諸々の仏を疎かにするということは、念仏を信じず、弥陀のみ名を称えないということだと言わなければならないでしょう。


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