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円満の徳号 [『正信偈』を読む(その116)]

(6)円満の徳号

 これまで龍樹、天親、曇鸞とたどってきましたが、どちらかと言いますと「本願を信ずる」ことに重点が置かれ、「名号を称える」ことはあまり触れられませんでした。ところが、ここ道綽のところにきて「円満の徳号、専称を勧む」と、念仏が正面に出てきました。道綽や善導たちが「ただ念仏(専称)」と説くようになるのです。それが法然や親鸞の専修念仏につながっていくのは言うまでもありません。
 ここで「万善の自力」と「円満の徳号」が対比されています。自力でどれほど善根を積もうが無効で、功徳の詰まった名号を称えてはじめて往生できるというのです。しかし、たとえ名号にどれほどの功徳が詰まっていようと、それを称えるのはわれらですから、それと「万善の自力」との違いは自明ではありません。むしろ念仏も万善の中のひとつではないかという疑いが出てくるのが自然でしょう。
 それにどう答えるべきか。
 本願を信じるのは「わたし」に違いないが、「わたし」が本願を自分の中に取り込むのではなく、逆に、本願が「わたし」を取り込むのだと述べてきました。それが他力の信だと。同じように、名号を称えるのは「わたし」に違いありませんが、「わたし」が名号を自分のものとするのではなく、名号が「わたし」を自分のものとすると言えるでしょう。それが他力の行だと。ただこの言い回しはまだ熟していないところがあります。
 本願が「わたし」を取り込むというのは受けとめることができても、名号が「わたし」を自分のものとするというのはどういうことか。
 「わたし」が念仏するのではなく、念仏が念仏するのだと言われることもありますが、これも分かったようで、その実よく分からない。本願を「信じる」ことと名号を「称える」ことの間には容易くは跳び越えられない溝があるようです。


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