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聖覚的な感性と親鸞的な感性 [『唯信鈔文意』を読む(その64)]

(3)聖覚的な感性と親鸞的な感性 

 親鸞は「如来の弘誓おこしたまへるやう(様)は、この『唯信鈔』にくわしくあらわれたり」と言っています。確かに『唯信鈔』は「如来の弘誓おこしたまへるよう」について、簡にして要を得た解説を施しており、聖覚という人の能力の高さを示しています。聖覚が法然の後を継ぐ人と目されたのも納得できるというものです。ただ、『唯信鈔』の該当する箇所を読みますと、どうしても聖覚的な感性(それは法然的な感性でもあります)と親鸞的なそれとの微妙な違いを意識せざるをえません。
 大事なポイントに絞って見ておきましょう。
 聖覚は次のように論を進めます。法蔵菩薩は世自在王仏のもとで、この上ない極楽浄土のありようを選ばれたが、「国土たえ(妙)なりといふとも、衆生むまれ(生まれ)がたくば、大悲大願の意趣に」そむきますから、普通は「孝養父母」や「読誦大乗(どくじゅだいじょう、大乗の経典を読む)」や「布施持戒」などが往生の因とされるのだろうが、「一切の善悪の凡夫ひとしくむまれ、ともにねがはしめむがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなえむを往生極楽の別因」とされたのだと言います。これは法然の『選択集』のみごとな要約になっています。
 極楽浄土へ入るには何らかの因が必要だが、一切の凡夫がひとしく入ることができるために、「ただ阿弥陀の三字の名号をとなえむ」という、誰でもできる特別な因(別因)を定められたのだということです。これが専修念仏という革新的な教えの要点とされるのです。実に分かりやすい論で、だからこそ親鸞はこの書物を推奨しているのですが、にもかかわらず、ここには親鸞的なものとは相容れない匂いがします。
 ことは「往生の因」に関わります。


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