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「生きる意味はあるか」という問いに自分で答えられるか [『唯信鈔文意』を読む(その184)]

(19)「生きる意味はあるか」という問いに自分で答えられるか

 「生きる意味はあるか」とか「生きる意味は何か」などという問いは、やはり何か特別な問いです。気安く誰かに訊いたり答えたりするものではないでしょう。だからといって自分に問いかけようと思って問うことでもありません。どこかから思いがけず迫ってくるものです。
 「生きる意味はあるか?」という問いを突きつけられて、「生きんかな」があらゆることの根底にあることに気づくのですが、しかしそれは同時に「生きんかな」に大きな疑問符がついたということでもあります。「このまま生きていくことにどんな意味があるのか?」と問われているのですから。
 さて、この問いに自分で答えを見つけなければならないのでしょうか。普通の問いなら、自ら問い、自らそれに答えなければなりません。でも、この問いは、自ら問うことができるものではなく、思いもかけずどこかからやってきたのでした。そのような問いに自ら答えることはできません。答えもまた向こうからやってくるしかないのです。
 「生きんかな」はすべての根底ですから、それに疑問をもつことができないのは、イスラム教徒が『クルアーン』のことばに疑問をもつことができないのと同じでした。『クルアーン』のことばに疑問をもつためには、イスラム教の外に出なければなりません。将棋を指しながら「香車はどうして後退できないのか?」と問うことができないようなものです。
 そして、問うことができないことに、答えることができないのは当たり前です。「後退してもいい」と答えられないのはもちろん、「後退できない」と答えることもできません。いや、そう答えてもいいですが、それは自分が答えているのではないでしょう。その答えはどこか向こうから(ルールブックから)やってきたものです。

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