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「生きる意味がある」という答えが向こうから [『唯信鈔文意』を読む(その186)]

(21)「生きる意味はある」という答えが向こうから

 「生きる意味があるのか?」という問いと「生きる意味はある」という答えがセットになってやってくるのです。どうしてそんなことが言えるのか、という声が起こることでしょう。「生きる意味なんかない」という答えが届くことだって考えられるではないかと。確かに論理的にはその可能性はありますが、実際はそうなりません。
 なぜか。
 もう一度「そのまま生きていくことに意味があるのか?」という問いが突然向こうからやってきた現場に立ち返りましょう。この問いによって「生きんかな」の存在に気づかされるのですが、この気づきは決して肯定的なものではありません。「生きんかな」の存在に否定の眼を向けさせる気づきです。「おまえの中には“生きんかな”があるが、“生きんかな”と思っていいのか?」という気づきです。さて、あるものが自分の中にあることに否定的に気づくとき、不思議なことが起こります。
 スピノザに登場願いましょう。彼は『エチカ』でこんなことを言っています、「自分の中にある苦悩を明晰・判明に表象した途端に、苦悩は苦悩であることをやめる」と。自分を苦しめているものについて、その正体をはっきりつかんだら、苦しみに変化が起こるということです。苦しみがすっかり消えてしまうことはありませんが、それまでの苦しみとは質が変り、苦しみを抱きしめることができるようになるということでしょう。あるものに否定的に気づくと、不思議や、否定が否定でありながら同時に肯定になるのです。
 「生きんかな」の存在に否定的に気づいたそのとき、それは同時に「生きんかな」に対する肯定となる。「生きる意味はあるか?」という問いが届いたそのとき、同時に「生きる意味はある」という答えが用意されているということです。

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