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因果の法則 [『一念多念文意』を読む(その35)]

(5)因果の法則

 カルヴァンの予定説は何とも恐ろしい思想と言わなければなりませんが、絶対神がこの世界を創造したという一神教の立場では、つきつめればこうならざるをえないのです。
 考えてみますと、別に神を持ち出さなくても、すべては因果の法則にしたがっているという立場(これはぼくらが普通にとっている立場です)をつきつめれば、「これから」世界がどのようになるかは「もうすでに」定まっているということになります。十年後のぼくがどうなっているか(生きているか死んでいるかを含め)は、「もうすでに」決まっています。ただそれが分からないだけ。明日の天気がどうなるかは「もうすでに」決まっています。ただぼくらはそれを過去のデータから帰納的に推測するしかなく確率的にしか分からないだけのことです。
 「これから」のことについて確実なことは何も言えないということと、「これから」のことは「もうすでに」決まっているということは矛盾しません。
 「これから」のことは因果の法則で隅々まで決まっていても、具体的にどのような因果関係がつながっていくかについては、過去の膨大なデータを調べることで推測するしかないからです。その推測の範囲は極めて限定されたものでしかありませんから、「これから」のことなど分かるはずがないと言わざるをえないのです。
 さらに言えば、すべては因果の法則にしたがっているというのも、ひとつの「立場」にすぎません、すべては神の摂理にしたがっているというのが一神教という「立場」にすぎないように。カントによりますと、すべては因果の法則にしたがっていると見ること自体は、過去の経験から帰納的に得たものではありません。逆に、すべては因果の法則にしたがっているという図式を当てはめることでわれらの経験は成り立っているのです。

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