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お天道様が見てござる [『一念多念文意』を読む(その65)]

(8)お天道様が見てござる

 「これはわがものである」という思いの隣にはいつも「ひとから侵害されるかもしれない」という不安があり、そしてその不安のもとをただせば、自分もまた「ひとのものを侵害するかもしれない」という思いがあります。「わがものという思い」はこのような疚しさを孕んでいるのです。
 「財産は盗みである」と喝破した人がいました。プルードンという社会主義者です。彼がこのことばに託したものは別として、「わがもの」と「盗み」とが親戚関係にあるのは疑うことができません。だから「はしたない」のです。で、「わがものという思い」などないかのように、なにくわぬ顔をして生きていますが、「つねに見られている」ということは、このはしたない「わがものという思い」を見透かされることですから、何とも耐え難く、逃げ出したくなります。
 しかし「つねに見られている」ということは、逃げ隠れできないということです。「お天道様が見てござる」とき、身を潜めるところはありません。そして、お天道様から隠れることができないということは、自分自身から隠れることができないということです。これまでは自分で見ないようにしてきたのですが、こうなりますとじっと見つめるしかありません、「あゝ、自分の中にこんな疚しい思いが渦巻いている」と。そして、そのとき不思議なことが起こるのです。
 スピノザというオランダの哲学者は『エチカ』の中でこう言っています、「苦悩(受動)という感情は、われわれがそれについて明晰かつ判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる」と。これは、釈迦が縁起ということばで言おうとしたことと重なります。

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