SSブログ

浄土の因果と往生の因果 [『教行信証』精読2(その19)]

(2)浄土の因果と往生の因果

 憬興はすでに「教巻」に登場しています。7世紀新羅の法相宗の僧で多くの注釈書を残していますが、『述文讃』は『無量寿経』の注釈書です。最初の一段はその『述文讃』からの引用ですが、つづく『悲華経』と『如来会』の経文は『述文讃』にはなく、親鸞がつけ加えたものです。その理由についてはこのあとすぐ述べます。まずは最初の一段ですが、ここで憬興は『無量寿経』の構成について、その上巻では「如来浄土の因果」が、その下巻では「衆生往生の因果」が説かれていると大づかみに述べています。この捉え方は大事な示唆を与えてくれます。
 浄土教でよくつかわれる「法(教説)と機(衆生)」という概念でいいますと、上巻で「法」が、下巻で「機」が説かれるということです。つまり、上巻においてわれらを救おうという本願とそれが成就してできた浄土のありようが語られ、下巻では救われるわれらがどのようにして往生浄土することができるかが語られているというわけです。浄土の教えといえば、われらを救う法である本願(と浄土)のこととされ、救われるわれら機のことはとかくお留守になりがちですが、『無量寿経』は上巻で法を説くだけでなく、下巻で機について語っているということです。
 さてそのあとに出てくる『悲華経』と『如来会』の経文は「如来浄土の因果」について述べられたものとして親鸞がつけ加えたのでしょう。
 ただ、『悲華経』の内容が分かりにくい。ここに登場する転輪王(理想的な王)は無諍念王(むじょうねんおう)という名でよばれ、親鸞はこれを阿弥陀仏の因位の法蔵菩薩のことと解しています。したがって宝蔵如来とは『無量寿経』でいえば法蔵菩薩の師である世自在王仏に当たるわけです。『無量寿経』では世自在王仏が法蔵菩薩の求めに応じて「広く二百一十億の諸仏の刹土(せつど、国土)の、天・人の善悪と国土の麤妙(そみょう、優劣)を説」くのですが、『悲華経』では宝蔵如来が無諍念王に西方・百千万億の仏土をすぎたところにある尊善無垢という世界とその仏・尊音王如来について説いているのです。その仏と仏土のありようは『無量寿経』に説かれる阿弥陀仏とその浄土そっくりです。そして、宝蔵如来は無諍念王をほめて、そのありようは「ことごとく大王の所願のごとくして異なけん」と言う。
 一体全体どうなっているのでしょう。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。