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大行とは [『教行信証』精読(その49)]

(3)大行とは

 さて大行とは何か。「大行とはすなはち無碍光如来のみなを称するなり」。普通に阿弥陀仏と言わずに無碍光如来と言っているということはありますが、まあしかし予想通りの答えでホッとします。浄土の行とは「南無阿弥陀仏」、あるいは「帰命尽十方無碍光如来」と称えることであるというのはぼくらの常識にかなっています。さてしかし、その行がただの行ではなく大行と言われるのはなぜか。それに答えるのが、次の「この行はすなはちこれ、もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す。真如一実の功徳宝海なり」の一文です。
 大行とは、とりあえずは「並の行をはるかに超えた勝れた行」という意味でしょうが、この文を読んでいるうちに、そうした普通の意味には収まりきらないものが感じられます。行と言いますと、布施・持戒・忍辱などのように、われらが「行う」ことを思い浮かべるもので、いまの場合は「無碍光如来のみなを称する」ことを指していると思いますが、この文で「行」というのは、むしろ「無碍光如来のみな」そのものを指しているのではないかと思えてきます。名号を称することではなく、名号そのものが「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具」しているというように。
 ここだけのことではありませんが、親鸞の中で称名と名号とがひとつに溶けあっているように感じられるのです。普通に考えますと、名号を称えることと名号そのものとは概念が明確に異なりますから、親鸞はその概念上の区別を曖昧にしているのではないかとも思えますが、どうも名号そのものに称名と名号の境界をぼやけさせるものがあるようです。そしてそのことが先ほどの疑問、「われらの称名」と「諸仏の称名」とがどのようにつながっているのかという疑問と重なっているように思われます。こうして、いったい弥陀の名号とは何なのかという根本的な問いが立ち上がってきますが、まだ「行巻」がはじまったばかりで、その問いに本格的に答えることはできません。
 ここでは弥陀の名号とぼくらの名前とを対比することでその問いに答えるための肩慣らしをしておきましょう。

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本文1 [『教行信証』精読(その48)]

(2)本文1

 「われらの念仏」と「諸仏の称名」についての疑問は疑問のままに取っておき、本文に進みましょう。

 つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名(みな)を称するなり。この行はすなはちこれ、もろもろの善法を摂(せっ)し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す。真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟(ししゃ)の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。

 (現代語訳) つつしんで往相の回向を考えてみますと、大行と大信とがあります。大行といいますのは、無碍光如来のみなを称えることです。この行はあらゆる善きものをその中に包み込んでおり、あらゆる功徳のもとを具えていまして、速やかに功徳を行者の身に満足させてくれます。それは真理そのものとして、功徳に満ちた宝の海ですから、大行というのです。ところでこの行は弥陀の大悲の願から出てきており、その願は「諸仏称揚の願」とも「諸仏称名の願」とも「諸仏咨嗟の願」とも「往相回向の願」とも「選択称名の願」とも名づけることができます。

 「教巻」冒頭に「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり」とあったのを受け、「行巻」の冒頭で、往相の回向に大行と大信があると述べているのですが、ここは「行巻」ですから往相回向として大行があるとだけ言えばよさそうなのに、あえて大信も持ち出してきます(因みに「信巻」の冒頭には「つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり」とあります)。
 これは、前にもふれましたように、行と信は切り離しがたくひとつであるからでしょう。行だけがあって信がないということはなく、また信だけがあって行がないこともありません。つねに行と信はひとつながりです。「信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信をはなれたる行なしとおぼしめすべし。これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし」とは手紙の中の親鸞のことばです。

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諸仏称名の願 [『教行信証』精読(その47)]

        第5回 行巻(1) みなを聞きて往生せんとおもへば

(1)諸仏称名の願

 これから「行巻」、正式には「顕浄土真実行文類 二」に入ります。冒頭に「諸仏称名の願」と掲げられ、その下に細字で二行、「浄土真実の行」、「選択本願の行」と書かれています。因みに「信巻」の冒頭には「至心信楽の願」(第十八願のことです)とあり、「証巻」には「必至滅度の願」(第十一願です)とありますように、それぞれの巻の頭に根幹となる願が掲げられています。これから浄土真実の行を明らかにするその中心に第十七願、すなわち諸仏称名の願があるというわけです。
 このすぐ後に引用される第十七願を先回りして見ておきますと、「たとひわれ仏をえたらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ、ほめたたえる)してわが名を称せずといはば、正覚をとらじ」というもので、世界中の仏たちが、わたしをほめたたえてわが名を称えなければ正覚をとらない、仏にならないということです。これを親鸞は諸仏称名の願と名づけているのですが、ここで称名とは「名を称える(たたえる)」とともに「名を称える(となえる)」ということです。名をたたえることは、取りも直さず名をとなえることです。
 学生時代に意を決して独力で『教行信証』を読んだときのことを思い出します。戸惑いに次ぐ戸惑いでした。
 まず、「教巻」とありますことから、ここには浄土真宗の教えが説かれているのだろうと思いきや、たった数ページの中に『大無量経』こそ真実の教えが説かれた経であると宣言されているだけであることに面食らいます。そして次の「行巻」。これは浄土真宗の行について明らかにする巻のはずなのに、その冒頭に掲げられるのが第十七願、諸仏称名の願であることに驚かされます。浄土の真実の行と言うのだから「われらの称名」に決まっていると思うのですが、「諸仏の称名」と言われるものですから、これはどうしたことかと頭を抱えることになります。
 いやはや、この書物は謎だらけで一筋縄ではいかないぞという印象です。

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証明するということ [『教行信証』精読(その46)]

(9)証明するということ

 弥陀の本願が真理であると「証明する」というのは、自分が弥陀の本願に対して「真理」というハンコを押すということです。金子大栄氏が弥陀の本願に「これは真理である」と太鼓判を押すということですが、これは何かおかしい。自分が弥陀の本願を証明するのではなく、逆に、弥陀の本願が自分を証明するのではないのかと感じたというのです。自分が弥陀の本願が存在することを証明するのではなく、むしろ弥陀の本願の方がこんな自分が存在していいことを証明してくれるということ。
 真理に二種類あるということです。ひとつはこちらからそれが真理であることを証明しなければならない真理で、世のもろもろの学問が日々獲得せんと苦闘している真理たちです。しかしもうひとつの真理があり、それはむこうからそれが真理であることが証明されてくる真理で、それあるがゆえにわれらは生きることができ、死ぬことができるような真理(キルケゴール)です。われらがそれの存在することを証明するどころか、それがわれらの存在することを証明してくれるのです。
 これまで「こちらからゲットする」こと(自力)と「むこうからゲットされる」こと(他力)を対比してきましたが、真理も「こちらからゲットする真理」と「むこうからゲットされる真理」があります。そして「こちらからゲットする真理」はそれが真理であることをわれらが証明しなければなりません。これは真理だと思ったものの、まがい物だったという可能性がありますから、間違いなく真理であることを保証しなければなりません。学問とは日々その営みを続けているのです。
 しかし「むこうからゲットされる真理」は、それが真理であることを真理そのものが証明しています。われらがそれにゲットされたこと自体が、それが真理である何よりの証拠です。弥陀の本願はある日突然「むこうからゲットされる真理」であり、それにゲットされたことそれ自体が真理であることの証明となっています。

                (第4回 完)

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これ真実の教を顕す明証なり [『教行信証』精読(その45)]

(8)これ真実の教を顕す明証なり

 教巻のはじめに「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり」と宣言し、それを経文の上に証拠立てようと、「如来、無蓋の大悲をもて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萠をすくひ、めぐむに真実の利をもてせんとおぼしてなり」に代表されることばを引いてきて、ここに「これ真実の教を顕す明証なり。まことにこれ如来興世の正説云々」と結論づけたわけです。かくして弥陀の本願と名号を説く『大無量寿経』こそ釈迦出世の本懐の教えであるとなるのですが、これはしかし『法華経』を本懐経とする天台宗や『華厳経』を本懐経とする華厳宗など聖道諸宗からすればとんでもない妄説と言わざるをえないでしょう。
 実際、たとえば『法華経』こそ釈迦出世の本懐の経であることは『法華経』の中にそう書いてあるわけで、『大無量寿経』が真実教であることは『大無量寿経』にそう書いてあると言っても水掛け論に終わってしまうでしょう。ではどうすればいいのか。どうするもこうするも、『大無量寿経』自身に、ここに釈迦出世の本懐である真理が説かれていることを語らせる他ありません。それが次の「行巻」をはじめとする各巻においてなされていくことになるわけですが、ここで少し考えておきたいのが「証明する」ということについてです。「ここに真理がある」ことは、そこで述べられている真理そのものが証明するしかないということ、これです。
 思い出されるのが、金子大栄氏のことです。金子氏は若い頃、弥陀の本願の真理性を自分が証明しなければならないという使命感を抱いたそうです。本願の教えを世に広めようとすれば、それが絶対の真理であることを誰の目にも明らかになるように証明しなければならない、それが真宗学徒としての自分に課せられた使命であると。将来を嘱望された学徒としてまことにもっともであり、殊勝な使命感であると言わなければなりません。世の学者たちはみな多かれ少なかれそのような思いで日々研鑽をつんでいるに違いありません。しかしあるとき金子氏はそれがとんでもない倒錯であることに気づいた。

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本文7 [『教行信証』精読(その44)]

(7)本文7

 憬興という人ですが、7世紀後半の新羅の法相宗の僧で、『大経』の注釈書である『述文賛』をはじめ、多くの経論の注釈を著しました。親鸞はここだけではなく「行巻」や「真仏土巻」に『述文賛』の文を引いています。
 この文は親鸞が『大経』からの引いた文(本文2と本文3)についての注釈と言えます。まず阿難が釈迦の威顔を讃えて「今日世尊、奇特の法に住したまへり。今日世雄、仏の所住に住したまへり。今日世眼、導師の行に住したまへり。今日世英、最勝の道に住したまへり。今日天尊、如来の徳を行じたまへり」と述べるところ、いわゆる五徳瑞現の一つひとつについてその意味を解説しています。そして『大経』からの引文の最後のところで釈迦が述べることば、「阿難まさにしるべし、如来の正覚は、その智量りがたくして、導御したまふところ多し。慧見無碍にしてよく遏絶(あつぜつ)することなし」の「阿難まさにしるべし、如来正覚は」が五徳瑞現の第一「奇特の法」、「慧見無碍にして」が第四の「最勝の道」、「よく遏絶することなし」が第五の「如来の徳」にあたると述べているのです。
 これはまあサッと読むだけにしまして、「教巻」末尾の結論部分に進みましょう。

 しかればすなはち、これ真実の教を顕す明証(みょうしょう)なり。まことにこれ、如来興世の正説、奇特最勝の妙典、一乗究竟(くきょう)の極説、速疾円融の金言、十方称讃の誠言(じょうごん)、時機純熟の真教なりと、知るべしと。

 (現代語訳) これまで引用してきました経文からしまして、『大無量寿経』こそが真実の教であることが明らかです。『大無量寿経』に説かれる弥陀の本願と名号の教えこそ、釈迦出世の本懐の教えであり、したがってこの経典はこの上なく勝れたものであり、その教えはすべての人が乗ることのできる窮極の教えであり、速やかに欠けるところなく功徳が満たされることばであり、十方の諸仏から称賛されることばであり、そしてこの末法の世と人々に適した真実の教えです。

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本文6 [『教行信証』精読(その43)]

(6)本文6

 三つの経文が引かれた後、憬興(きょうごう)の『述文讃(じゅつもんさん)』から次の文が引用されます。

 憬興師のいはく、「今日世尊奇特の法に住したまへり」といふは、神通輪によりて現じたまふところの相なり。ただつねに異なるのみにあらず。また等しきものなきがゆゑに。「今日世雄仏の所住に住したまへり」といふは、普等三昧に住して、よく衆魔雄健天(おうごんてん)を制するがゆゑに。「今日世眼導師の行に住したまへり」といふは、五眼を導師の行と名づく。衆生を引導するに過上なきがゆゑに。「今日世英(せよう)最勝の道に住したまへり」といふは、仏、四智に住したまふ。独り秀でたまへること、ひとしきことなきがゆゑに。「今日天尊如来の徳を行じたまへり」といふは、すなはち第一義天なり。仏性不空の義をもつてのゆゑに。「阿難まさにしるべし、如来正覚は」といふは、すなはち奇特の法なり。「慧見無礙」といふは、最勝の道を述するなり。「よく遏絶(あつぜつ)することなし」といふは、すなはち如来の徳なりと。以上

 (現代語訳) 憬興師が『述文賛』でこう言われています、『大経』に「今日世尊奇特の法に住したまへり」とあるのは、仏の神通力によってとられた姿のことで、普通とは異なるというだけではなく、それと等しいものがないということです。「今日世雄仏の所住に住したまへり」とあるのは、仏が諸仏をあまねく見たてまつる禅定である普等三昧にお入りになり、魔王を制したまうということです。「今日世眼導師の行に住したまへり」とは、仏の五種の眼をもってあやまりなく衆生を悟りへと導かれるということです。「今日世英最勝の道に住したまへり」というのは、仏の四種の智慧をお持ちになり他に秀でていられるということです。「今日天尊如来の徳を行じたまへり」とは、真如仏性を悟られ、その仏性のはたらきは常住であることをお示しになられるということです。「阿難まさにしるべし、如来正覚は」といいますのは「奇特の法」のことで、「慧見無礙」とありますのは「最勝の道」をさします。そして「よく遏絶することなし」とはすなわち「如来の徳」について述べているのです。

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仏ましませどもはなはだ値ふことをうること難し [『教行信証』精読(その42)]

(5)仏ましませどもはなはだ値ふことをうること難し

 世に優曇鉢樹があるものの、華を咲かせるのは三千年に一度といわれるほど稀であるように、世に仏がましましても、仏に「値(もうあ)ふ」ことははなはだ稀であり、難しいことだと言われます。「値ふ」は「遇ふ」と同じ意味です。ふたつ重ねて「値遇」と言うこともありますが、「あるとき思いがけずあう」ということです。先回の最後のところで本願に遇うことの独特の難しさについて考えましたが、ここであらためて仏に遇うことがどうしてそれほど難しいのかについて思いを廻らせたいと思います。
 「会う」ことの難しさと「遇う」ことの難しさはまったく別です。
 ある人に会おうとしても、とても難しいということはよくあることです。たとえば天皇に会おうと思っても、そうたやすく会えるものではないでしょう。あるいは内閣総理大臣に会うのも簡単なことではありません。でも、本気で真剣に会いたいと思えば、そして必要な手続きを踏む努力をすれば、会えないわけではないでしょう。天皇や総理大臣はどこかにいるのですから。ところが仏に遇うことの難しさは、天皇や総理大臣に会うことの難しさとまったく別種の難しさです。
 その違いをひと言でいいますと、天皇や総理大臣は会う前からどこかに存在していますが、仏は遇ってはじめて存在するようになるということです。
 『平等覚経』には「世間に仏ましませどもはなはだ値ふことをうること難し」と言われていますが、「仏まします」と言えるのはすでに仏に遇った人であり、まだ仏に遇っていない人には仏はどこにもましません。いや、ましまさないということもありません。仏は遇ってはじめてましますようになるのですから、仏に遇っていない人は「仏まします」と言えないのはもちろん、「仏ましまさず」とも言えません。「まします」でも「ましまさず」でもない、何ごともないのです。
 遇ってはじめてましますようになる仏に遇うのは、何とも言いようのない難しさです。この難しさ自体が、仏に遇ってはじめて了解できます。そのときの思いが、これまでずっと遇うことができなかった仏に、いまようやく遇うことができたのは、優曇華の「いましはなのいづるがごとし」というものです。

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本文5 [『教行信証』精読(その41)]

(4)本文5

 技術的なトラブルで更新が遅れました。

 『平等覚経』にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、世間に優曇鉢樹(うどんばじゅ)あり。ただ実ありて華あることなし。天下(てんげ)に仏まします、いまし華の出づるがごとくならくのみ。世間に仏ましませども、はなはだ値(もうあ)ふことを得ること難し。いまわれ仏になりて天下に出でたり。なんじ大徳ありて、聡明(そうみょう)善心にして、あらかじめ仏意を知る。なんじ忘れずして仏辺にありて仏に侍へたてまつるなり。なんぢいま問へるところ、よく聴き、あきらかに聴け」と。以上

 (現代語訳) 『平等覚経』には次のように説かれています。「釈迦が阿難に言われます。世間には優曇鉢樹がありますが、ただ実があるだけで花の咲くことはありません。世に仏がましますのは、その優曇鉢樹に花が咲くようなものです。世に仏がおわしましても、その仏にお遇いするのははなはだ難しいことです。いま私は仏として世にあらわれています。あなたは大いなる徳があり、また聡明にして善い心をお持ちで、言われなくても仏の気持ちをよく知ることができ、またそれを忘れずに仏の傍につかえておいでになります。あなたがいまお尋ねになったことを耳を澄ませてよく聴かれるがよろしいと」。

 この『平等覚経』の文では、仏に遇うことの難しさが強調され、阿難は聡明にして仏に遇うことの意味をよくわきまえていることが述べられています。
 それについて考える前に、もういちど5存7欠の話にもどりますと、『平等覚経』(漢訳)と『大阿弥陀経』(呉訳)は本願の数が24であることから二十四願経とよばれ、『大経』(魏訳)と『如来会』(唐訳)は本願が48であることから四十八願経とよばれます(『荘厳経』(宋訳)では本願は36です)。肝心の本願の数がこんなにも違うということは、漢訳されるもとの原典が何種類かあったと考えざるをえません。親鸞は『大経』、『如来会』だけでなく、『平等覚経』、『大阿弥陀経』という古いバージョンもよく引用しますが、それは四十八願経だけでは読みとれないことを二十四願経からうかがうことができるからでしょう(そのことは次の「行巻」において鮮やかに示されます)。

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もろもろの有情を哀愍し利楽せんがため [『教行信証』精読(その40)]

(3)もろもろの有情を哀愍し利楽せんがため

 そしてもう一点、『大経』では阿難が釈迦に問いかけたのは「ふかき智慧、真妙の弁才をおこして、衆生を愍念せんとして」であるとされていました。この言い回しでは、阿難が気づいたことを釈迦に問おうとしたのは、自分のためであるとか、他の意図とかからではなく、そうすることが衆生のためになると考えてのことであると読めます。
 しかし『如来会』では、阿難が「如来にかくのごときの義をとひたてまつ」ったのは、「優曇華の希有なるがごとくして大士世間に出現したまへ」るところに遇うことができた喜びからであるとともに、「またもろもろの有情を哀愍し利楽せんがためのゆゑ」であるとされます。この表現では、阿難がこの義を問いたてまつったのは、結果としてもろもろの有情を大きく利することになったと読むことができます。
 『如来会』の方がすんなりと頭に収まります。阿難は釈迦出世の本懐に遇うことができたことを慶ぶのですが、それはただ阿難ひとりのことではなく、「もろもろの有情を哀愍し利楽」することになるということです。阿難の慶びは、もろもろの有情の慶びにつながっていくということ、ここにも第17願が顔を出しています。
 法蔵は「たとひわれ仏をえたらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ、ほめる)してわが名を称せずといはば正覚をとらじ」と誓い、本願が六字の名号に約められて一切衆生のもとへ届けられるのでした(第3回、6参照)。釈迦が出世の本懐として弥陀の本願・名号を説くのも諸仏称名の一環ですが、釈迦出世の本懐の場に居合わせた阿難もまた弥陀の本願・名号を人々のもとへ届けることになるのであり、『如来会』で「またもろもろの有情を哀愍し利楽せんがため」と言われているのはそういうことだと理解することができます。
 こんなふうに『大経』だけでなく、『如来会』も参照することで、その言わんとするところをより深く理解することができるようになるのですが、親鸞はさらに加えて『平等覚経』も持ち出します。

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