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本文1 [『教行信証』精読(その59)]

       第6回 行巻(その2) よく衆生の一切の志願をみてたまふ

(1)本文1

 『大経』、『如来会』につづいて、今度は『大阿弥陀経』からの引用です。

 『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩樓仏檀過度人道2経(ぶっせつしょぶつあみださんやさんぶつさるぶつだんかどにんどうきょう)』(『大阿弥陀経』といふ、『二十四願経』といふ)にのたまはく、「第四に願ずらく、某(それがし)作仏せしめん時、わが名字をもつてみな、八方上下無央数3(むおうしゅ)の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛蠕動4(けんびねんどう)の類、わが名字を聞きて慈心5せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ」と。以上
 注1 サンヤサンブッダサンボディの音写、正徧知、あるいは正覚と訳す。仏の悟り。
 注2 人間道を済度する、の意。
 注3 央は尽の意味で、尽くされることのない数、無数ということ。
 注4 空を飛び、地を這う虫たち。
 注5 よろこぶ心

 (現代語訳) 『大阿弥陀経』にこうあります、「第四に次のような願をたてられました。わたしが仏とならんとき、わが名を十方の無数の仏国に聞こえるようにして、諸仏がそれぞれの国の比丘たちや大衆のなかでわたしの徳、わが国土の素晴らしさを讃えるようにしたい。諸天や人間、そしてさまざまな虫たちにいたるまで、わが名を聞いて喜びの心を懐かないものはないであろう。そうした歓喜踊躍するものたちをみなわが国に往生させよう。わたしはこの願を成就して仏となろう。もし成就できないようなら仏となるまい、と」。

 ここであらためて五存七欠を思い起こしますと(第4回―2)、『無量寿経』には『平等覚経』・『大阿弥陀経』という古い層に属する漢訳と、『大経』・『如来会』という新しい層に属する漢訳があります(もうひとつ、『荘厳経』というもっとも新しい漢訳がありますが、親鸞はおそらくこれを見ることはなかったでしょう)。そして古い『無量寿経』は二十四願経で、新しい『無量寿経』は四十八願経です(『荘厳経』は三十六願)。ここで引用されているのは古い『大阿弥陀経』の第四願です。

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誤読では? [『教行信証』精読(その58)]

(12)誤読では?

 親鸞は『如来会』からは第十七願を引用することはせず、重誓偈から三つの偈文を引き、そして第十七願の成就文にあたる部分を引いていますが、どうして『如来会』の第十七願を引かないのだろうかと思います。「信巻」では『大経』の第十八願およびその成就文と『如来会』の第十八願およびその成就文を欠け目なく引いているのに、なぜ「行巻」では『如来会』の第十七願を引かないのでしょう。
 『如来会』の第十七願を見てみますと、無数の諸仏が「わが国を咨嗟し称嘆せずば正覚をとらじ」となっています。『大経』では無量の諸仏が「ことごとく咨嗟してわが名を称せずば正覚をとらじ」となっていたのが、『如来会』では「わが名」ではなく「わが国」となっているのです。「わが名」を讃えることは「わが国(安養浄土)」を讃えることに他なりませんから、『大経』と『如来会』とで違いがあるわけではありませんが、親鸞にとって「行巻」は名号、「南無阿弥陀仏」を称えることを説く巻ですので、『如来会』の第十七願を引くのは控えたのだろうと思われます。
 それよりも、先の注2で触れたことが気になります。『如来会』の文、「心あるいは常に施を行じ、ひろく貧窮をすくひて、もろもろの苦を免れしめ、世間を利益して、安楽ならしむるに堪えずんば、救世の法王にならじ」を、親鸞は「心あるいは常行にたえざらんものに施せん。ひろく貧窮をすくひて、もろもろの苦を免れしめ、世間を利益して安楽ならしめん」と読んでいるということです。文末にくる「救世の法王にならじ」を無視して読んでいるのですが、これは普通に考えますと、誤読と言わざるをえません。このさき読んでいくなかでしばしばお目にかかりますが、親鸞はどうにも無理筋と思われる読み方をあえてすることがあります。
 考えようによっては経論を自分勝手に読み替えているということになりますが、親鸞としてはそのようにしか読めないのでしょう。いや、親鸞にとって、経論はただの文字ではなく、そこから仏の声が聞こえてきているに違いありません。ここでも、「常行にたえざらんものに(名号を)施せん」という法蔵の声が聞こえて、もうそのようにしか読めなくなったのに相違ありません。

                (第五回 完)

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本文4 [『教行信証』精読(その57)]

(11)本文4

 『大経』につづいて、『如来会』から引用されます。

 『無量寿如来会』にのたまはく、「いま如来に対して弘誓をおこせり。まさに無上菩提の1を証すべし。もしもろもろの上願を満足せずは、十力無等等を取らじ。心、あるいは常行に堪へざらんものに施せん。ひろく貧窮(びんぐ)をすくひて、もろもろの苦を免れしめ、世間を利益して安楽ならしめん2乃至。最勝丈夫、修行しおはりて、かの貧窮において伏蔵とならん。善法を円満して等倫なけん。大衆のなかにして師子吼せん」と。以上抄出
 またのたまはく、「阿難、この義利をもてのゆゑに、無量無数、不可思議、無有等等、無辺世界の諸仏如来、みなともに無量寿仏の所有の功徳を称讃したまふ」と。以上
 注1 「因」では意味が通らず、「日」の誤記であると考えられます。「日」と改めてこの部分を読み直しますと、「まさに無上菩提を証すべきの日、もしもろもろの上願を満足せずば」となります(山辺智学・赤沼智善著『教行信証講義』による)。
 注2 『如来会』のもとの文では「心あるいは常に施を行じ、ひろく貧窮をすくひて、もろもろの苦を免れしめ、世間を利益して、安楽ならしむるに堪へずんば、救世(くせ)の法王にならじ」とあるのですが、親鸞は「救世の法王にならじ」の句を削除し、「心あるいは常行に堪へざらんものに施せん。ひろく貧窮をすくひて、もろもろの苦を免れしめ、世間を利益して安楽ならしめん」と読んでいます。そうすることで、法蔵菩薩は、厳しい修行に堪えることができない哀れな凡夫に、名号という宝を施して救おうとしたことがよりはっきりするということでしょう。

 (現代語訳) 『無量寿如来会』にはこうあります、「いまわたし法蔵は、世自在王仏に対して弘誓をおこしました。この上ない悟りをひらいて仏となるべき日に、もしこれらの優れた誓願を成就できないようでしたら、十力をそなえた仏にはなりません。こころが軟弱で厳しい修行に堪えられないものに名号を届けましょう。こころ貧しいものたちを広く救い、もろもろの苦から免れることができるようにして、世間に利益を与え人々を安楽ならしめたいと思います。(中略)わたしは勝れた丈夫として修行を積み重ね、あのこころ貧しきものたちに名号という宝をほどこします。あらゆる善き功徳をそなえた並ぶもののない仏として生きとし生けるものたちに教えを説きたいと思います」と。
 またこうあります、「阿難よ、名号にはこのように真の利益があるから、世界中の数限りない仏たちが、みな口をそろえて無量寿仏の功徳を称讃するのだ」と。

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名を聞きて [『教行信証』精読(その56)]

(10)名を聞きて

 「その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る」という東方偈の文は、古来、浄土教において大事にされてきたものですが、これはしかし第十八願の成就文「あらゆる衆生、その名号をききて信心歓喜せんこと乃至一念せん。…かのくにに生ぜんと願ずれば、すなはち往生をえ、不退転に住す」と大きく重なりますから、どうして親鸞は第十七願に関係させるのだろうかという疑念を抱かせます。「行巻」ではなく「信巻」にふさわしいのではないかと(実際「信巻」においても、この文は、完全なかたちではありませんが、引かれています)。
 親鸞がこの文を第十七願の成就文に関連させて取り上げたわけは、「名を聞きて」という文言に着目したからに違いありません。諸仏が阿弥陀仏の徳を讃えて称名することにより、われら十方世界の衆生は「名を聞く」ことができるわけですから、この文は第十七願につながってくるということです。諸仏の称名は、取りも直さず、われらの聞名です。ここから了解できるのは、第十七願と第十八願とは密接に関係しあっているということです。同じことですが、行と信は一体不可分であるということ。これまでもそのことに何度か言及してきましたが、ここにきて改めて確認することができます。
 ぼくらは念仏といいますと、ぼくらが称名することとしか受け取りませんが、ぼくらが称名するのは、それに先立って諸仏の称名があるからだということ、ここに念仏の本質があります。むこうから(諸仏から)南無阿弥陀仏の声が聞こえてきます。その声は「(いのちのふるさとへ)帰っておいで」と呼びかけている。その声が身に沁みて、ぼくらはただちに「はい、ただいま」と返事する。呼びかけがあるから応答するのであり、このすべてが念仏であるということ、これを明らかにするのが「行巻」であり「信巻」であるということです(第十七願と第十八願、行と信が一体であることは、少し先の『大阿弥陀経』と『平等覚経』からの引用でもっと鮮明になってきます)。

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本文3 [『教行信証』精読(その55)]

(9)本文3

 つづけて第十七願が成就されたことを述べる経文が上げられます。

 願成就の文、『経』にのたまはく、「十方恒沙(ごうじゃ)の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまふ」と。以上
 またのたまはく、「無量寿仏の威神極まりなし。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来、かれを称嘆せざるはなし」と。以上
 またのたまはく、「その仏の本願力、名(みな)を聞きて往生せんと欲(おも)へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る」と。以上

 (現代語訳) 第十七願が成就したことを『大経』はこう述べます、「世界中の無数の諸仏たちはみな声をあわせて無量寿仏のこの上なく優れた不思議な功徳を讃嘆されます」と。
 またこうも言われます、「無量寿仏の徳はきわまるところがありません。世界中の限りない仏たちが無量寿仏を褒めたたえています」と。
 また「その仏の本願力により、仏のみ名をお聞きして往生したいと思えば、みな例外なくかの浄土へ往くことができ、もう転がり落ちることはありません」とも述べられています。

 『大経』の下巻(『大経』は上下二巻に分かれることから双巻経とも呼ばれます)のはじめに、第十一願の成就文、つづいて第十七願と第十八願の成就文が置かれていますが(この三願はそれぞれ証巻、行巻、信巻の冒頭に掲げられている願です)、ここではその第十七願成就文がまず上げられます。それにつづく二文は、先の三願成就文の後、いわゆる「三輩段」を挟んで、次の「諸仏讃勧の段」から引かれています。この段は散文の部分(長行といいます)と偈頌の部分からなりますが、二つ目の文は長行から、最後の文は偈頌(これを「東方偈」あるいは「往覲偈」とよびます)から出されます。
 一つ目と二つ目の文は第十七願が成就され、阿弥陀仏の徳が世界中の仏たちに讃嘆されていると述べていて何の解説も要りませんが、問題は最後の文です。

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本文2 [『教行信証』精読(その54)]

(8)本文2

 かなり先走ってしまいましたが(すでに第十八願の領分にまで足を踏み込んでいます)、親鸞は浄土の大行が「無碍光如来のみなを称する」ことである所以を経典の上で確認していきます。まずは『大経』から。

 諸仏称名の願、『大経』にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」と。
 またのたまはく、「われ仏道を成らんに至りて、名声(みょうしょう)十方に超えん。究竟(くきょう)して聞ゆるところなくは、誓ふ、正覚を成らじと。衆のために宝蔵を開きて、広く功徳の宝を施(せ)せん。つねに大衆(だいしゅ)のなかにして、説法師子吼(ししく)せん」と。抄要

 (現代語訳) 諸仏称名の願といいますのは、『大経』にこうあります、「たとえわたしが仏となることができましても、世界中の諸仏たちがことごとくわたしの名を讃えて称えることがないようなら、わたしは仏とはなりません」と。
 またこうも言われます、「わたしが仏になりましたら、わたしの名が十方世界に広がることでしょう。もしそれが聞こえないようなところがあれば、わたしは仏になりません」と。また「衆生のために宝の蔵をひらいて、名号という功徳のつまった宝を届けましょう。つねに衆生とともにあり、真実の教えを説いてやみません」とも言われます。

 第十七願については、すでに先回りして何度も読みました。それにつづく文は、いわゆる重誓偈(じゅうせいげ)とよばれる部分の二つの偈文です(3と8)。重誓偈とは法蔵菩薩が四十八の誓願を述べ上げた後、さらにそれを偈としてまとめているものです。親鸞は第十七願の意味するところを補うものとしてこの二つの偈文を上げたのでしょう。「補う」の意味はもうお分かりでしょう。第十七願をさっと読むだけでは、ただ単に「わたしの名が諸仏にたたえられますよう」としか受け取られませんから、「諸仏の称名」は、「名声十方にこえ」て、「究竟してきこゆるところな」きようにするためであることを明らかにしようと、これらの偈文が引かれたということです。

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選択称名の願 [『教行信証』精読(その53)]

(7)選択称名の願

 そして「選択称名の願」とは、名号(すなわち称名)が弥陀(法蔵)によって選択されたものであるということです。
 どうして第十七願で「わが名」が十方の衆生に届けられねばならないかといいますと、法蔵は自分の願い(誓願)をどうすれば一切衆生のもとに届けることができるだろうかと五劫思惟し、その結果、諸仏が「わが名」を称えるというかたちしかないという結論に至ったということです。『大経』の該当する箇所を読みますと、法蔵は世自在王仏から二百一十億の諸仏の国土・人天のありさまを覩見させていただき、「五劫を具足して、仏国を荘厳すべき清浄の行を思惟し、摂取せり」とあるだけで、法蔵は「諸仏の称名」という方法でわが誓願を十方衆生に届けようとしたと書いてあるわけではありません。
 それは親鸞が第十七願から聞き取ったというしかありません。
 親鸞がそう聞き取るまでは、ただ諸仏が阿弥陀仏の徳をほめたたえるというようにしか受け取られてこなかった第十七願を、諸仏の称名は弥陀の誓願を一切衆生のもとに届けるためであると受けとめたのです。願いはただ願いとしてあるだけでは無力であり、その願いが向けられている相手にしっかり届けられなければなりません。ではどうすれば願いを届けることができるのかと考えに考えた挙句、世界中の諸仏に「わが名」をほめたたえてもらおうという方法にたどり着いた。それが第十七願の意味であると親鸞は聞き取ったのです。
 以上のことから了解できるのは、浄土の行というとき、それはまずは「諸仏の称名」であるということです。諸仏が弥陀の名号を讃え称えること、これがすべてのスタートです。そして、それはわれらの側から言いますと、諸仏の称名の声が聞こえるということに他なりません。諸仏の称名はわれらの聞名であるということです。かくしてわれらは弥陀の本願に遇うことができるのですが、そのとき何が起こるかと言いますと、われらの口からおのずと南無阿弥陀仏の声が漏れ出るのです。これが「われらの称名」ですから、「この行は大悲の願よりいでたり」ということになるわけです。

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往相回向の願 [『教行信証』精読(その52)]

(6)往相回向の願

 第十七願の名として「諸仏称揚の願」・「諸仏称名の願」・「諸仏咨嗟の願」・「往相回向の願」・「選択称名の願」の五つが上げられます。前の三つは伝統的にそう呼ばれてきたもので、みな同じ意味です。要するに、諸仏が阿弥陀仏をほめたたえるということです。親鸞までは(おそらくは法然も)、この願は単純に「わたしの名が世界中の仏たちから認められ、ほめられたい」という意味に解されてきたと思われます。しかし親鸞はこの願にそれ以上の決定的に重要な意味を見いだすのです。それが「往相回向の願」と「選択称名の願」という名に示されています。
 「往相回向の願」とは、名号(すなわち称名)は弥陀から回向される(与えられる)ものだということです。
 ぼくらはどうかすると名号(すなわち称名)はぼくらが回向するものと考えてしまいます。ぼくらが弥陀に向かって南無阿弥陀仏(「阿弥陀仏を敬います」)と称えるというように。それが間違いだというわけではありませんが、忘れてならないことは、ぼくらが弥陀に南無阿弥陀仏と称えるより前に、諸仏が南無阿弥陀仏と称えているということです。諸仏が南無阿弥陀仏と称える声が聞こえて、ぼくらはその声に唱和するように南無阿弥陀仏と称えるということ。ぼくらが南無阿弥陀仏と称えるのは、それに先立って諸仏の南無阿弥陀仏の声が聞こえるからです。名号が聞こえる(聞名)から、名号を称える(称名)、この順番が重要です。
 第十七願は単に「わたしの名が世界中の諸仏からほめたたえられますように」ということではありません。「わたしの名が世界中の諸仏からほめたたえられることにより、一切衆生にわたしの名が届きますように」という誓願なのです。先ほど、四十八願のなかで第十七願にはじめて「わが名」があらわれ、そのあと十二回にわたって「わが名」(「わが名号」、「わが名字」)が登場すると言いましたが、まず第十七願で諸仏が「わが名」を称え、そのあとの十二願で十方の衆生がそれを聞くということから、諸仏が弥陀を褒めたたえるのは、十方の衆生に弥陀の名号が聞き届けられるためであることが分かります。

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南無阿弥陀仏 [『教行信証』精読(その51)]

(5)南無阿弥陀仏

 「行巻」のハイライトは何かと問われたら、迷うことなく、南無阿弥陀仏とは何かを明らかにする、いわゆる「六字釈」だと答えたいと思いますが、そこでは「南無」とは「帰命」であると言われます。では帰命とは何かと問い、以下驚くべき展開をみせていくのですが、それは後の楽しみに取っておくとしまして、ここでは南無はインドのことば“namo”の音訳であることを確認しておきたいと思います。“namo”は「敬う」ということで、「こんにちは」を意味する“namaste”はいまも日常の挨拶としてつかわれています。これは「あなた」=“te”を「敬います」=“namas”(“namo”と同根)ということです。
 そこから南無阿弥陀仏とは「阿弥陀仏を敬います」を意味することが分かります。第十七願で「十方世界の無量の諸仏がわたしの名を讃えて称えるようにしたい、そうでなければ正覚をとらない」と誓われたということは、諸仏が「阿弥陀仏を敬います」と称えるようにしたいということに他なりませんから、名号はただの阿弥陀仏ではなく南無阿弥陀仏でなくてはならないのです。われら十方の衆生から言いますと、ただ阿弥陀仏と聞こえてくるのではなく、諸仏の南無阿弥陀仏という声が聞こえてくるということです。そして名号は阿弥陀仏ではなく南無阿弥陀仏であるということは、名号と称名(われらから言えば聞名)は別ものではないということを意味します。
 さて「大行とはすなはち無碍光如来のみなを称するなり」とあり、「しかるにこの行は大悲の願よりいでたり。すなはちこれ諸仏称揚の願となづく云々」とつづくのですが、ここに疑念が生じたのでした。「無碍光如来のみ名を称する」のが行であると聞きますと、当然「われらが無碍光如来のみなを称する」ことだと思うのに、これは第十七願すなわち「諸仏が無碍光如来のみ名を称する」という願から出てくると言われるものですから、「うん?」となるのです。どうして「諸仏が南無阿弥陀仏と称えるようにしたい」という願から、「浄土の行は南無阿弥陀仏と称えることである」が出てくるのかと。

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わが名 [『教行信証』精読(その50)]

(4)わが名

 ぼくらの名前の場合、名前そのものと、その名前を呼ぶことはまったく別です。そしてぼくらの名前、たとえば「浅井勉」は他の人からぼくを区別するための記号にすぎません。ところが「阿弥陀仏」あるいは「尽十方無碍光如来」という名は他の仏から区別するためのただの記号ではありません。第十七願をもういちど見てみますと、「たとひわれ仏をえたらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずといはば、正覚をとらじ」とあります。四十八願の中で「わが名」(あるいは「わが名号」、「わが名字」)ということばはここではじめて顔をだし、そのあと十二回にわたって登場します(第二十願、第三十四願、第三十五願、第三十六願、第三十七願、第四十一願、第四十二願、第四十三願、第四十四願、第四十五願、第四十七願、第四十八願)。
 第十七願では名号は「諸仏が称える(たたえるとともに、となえる)」もので、そのあとに登場する名号はみな「十方の衆生が聞く」ものです。つまり「わが名」は諸仏がそれを讃えて称え(称名)、衆生がそれを聞く(聞名)という関係であらわれるということ、ここに名号の秘密があります。卑近な例でいいますと、選挙の際に、候補者の名前が連呼されるようなもので、運動員たちが候補者の名を連呼するのは、その名を讃えて選挙民たちに届けようとしているのですし、選挙民たちはそれを聞かされるわけです。このように、候補者の名はただの記号ではなく、候補者を褒めたたえてその名を人々のこころに届けるものですが、阿弥陀仏の名も、ただの記号ではありません。その徳を讃えて称えられるものであり、われらのこころに届けられるものです。
 ところで弥陀の名号といいますと南無阿弥陀仏であり、ただの阿弥陀仏ではありません。これまたはじめて『教行信証』を読んだぼくに大きな疑問として立ちはだかりました。名号とは名前ということなのに、どうして阿弥陀仏の前に「南無」がつくのか。いろいろ本を読んでも正面から答えてくれるものにお目にかかれません。しかしこれも弥陀の名号は諸仏が称名するものであり、十方の衆生がそれを聞かせてもらうものであるということから自然と了解できます。

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