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こだま [親鸞最晩年の和讃を読む(その5)]

(5)こだま

 本願とは「帰っておいで」という呼びかけであり、それに「はい、ただいま」と応答することがまた「帰っておいで」という呼びかけになることを見てきました。
 さて次に考えなければならないのは、呼びかけへの応答がまた呼びかけになるということは、呼びかけとその応答の二つはもともとひとつであるということです。諸仏の呼びかけがあり、それを受けて衆生が応答するのに違いありませんが、しかしあちらに呼びかけがあり、こちらに応答があるとして、両者を別ものとしてしまいますと、呼びかけと応答は一度きりで終わってしまい、もはや応答が呼びかけになることはできません。
 呼びかけと応答はこだまのようなものです。「ヤッホー」という声が向こうの山にはねかえり「ヤッホー」と返ってきて、それがまた反響して「ヤッホー」と出ていく。
 そのように南無阿弥陀仏の声がやってきて、南無阿弥陀仏の声としてはねかえり、それが次々と連続していくのです。ここから了解できますのは、「ほとけのいのちに帰っておいで」の声が聞こえたとき、それをわれらが熟慮・玩味して「はい、ただいま帰ります」と答えるのではないということです。この声はわれらを誑かすものではないかという疑いをはねのけ、信用できると確信した上で応答しているのではありません。「帰っておいで」に即、「はい、ただいま」とこだましているのです。
 しかしどうしてそんなことがありうるのか。その答えはこのうたの第2句、第3句「本願信ずる人はみな、摂取不捨の利益にて」にあります。
 本願信ずる人とは「帰っておいで」の声が聞こえた人ということです。聞こえて、そして信ずるのではありません、聞こえることが取りも直さず信ずることです。どうしてかといいますと、その声が聞こえることが、弥陀の光明に摂取不捨されることだからです。親鸞は摂取不捨されることが正定聚となることであり、そしてそれが即得往生であると言いますが(※)、もっと平たく言ってしまえば、そのとき救われるのです。「帰っておいで」の声が聞こえることで、もう救われるのですから、それには「はい、ただいま」とこだまするしかないではありませんか。
 ※「真実信心をうれば、すなわち無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまはざるなり。摂は、おさめたまふ、取はむかへとるとまふすなり。おさめとりたまふとき、すなわち、とき・日おもへだてず、正定聚のくらゐにつきさだまるを、往生をうとはのたまへるなり」(『一念多念文意』)

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