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そらごとたはごと [親鸞最晩年の和讃を読む(その87)]

(4)そらごとたはごと

 「機の深信」といいますのは「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」(善導『観経疏』「散善義」)と信ずることで、いま取り上げている「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごとたはごと、まことあることなし」ということばとぴったり重なります。この親鸞のことばは「自身は現にこれ煩悩具足の凡夫にして、よろづのこと、みなもてそらごとたはごと、まことあることなし」と言っているのですから。
 さていま考えなければならないのは、この「機の深信」はどのようにしてもたらされるかということです。自力でもたらされるのか、それとも他力によるか、ということ。
 「法の深信」すなわち本願を信ずるのは他力によることは議論の余地がありません。本願は自分で気づけるものではなく、「如来の御もよほし」(『歎異抄』第6章)により気づかせていただくしかないことは衆目の一致するところです(「賜りたる信心」です)。しかし「機の深信」はといいますと、一見したところ、自分で気づかなければならないことのように思えます。これはまさに「自覚(みづから覚る)」すべきことであり、そうしてはじめて「法の深信」を賜ることができると考えるのが筋のように見えます。
 さあしかしこれを自力だとしますと、途端に先ほどのパラドクスが襲いかかってきます。「自身は現にこれ煩悩具足の凡夫にして、よろづのこと、みなもてそらごとたはごと、まことあることなし」と言った途端に、そのように言うこともまた「そらごとたはごと」になってしまいます。ここにはどうしようもない自家撞着がありますが、しかしだからといってこのことばの真実性が微塵も揺らぐことはありません。としますと、このことばの真実性は自分でそのように自覚することにあるのではなく、むこうから突き付けられるからとしか考えられません。
 どこかから「〈なんじは〉現にこれ煩悩具足の凡夫にして、よろづのこと、みなもてそらごとたはごと、まことあることなし」と突きつけられ、「お恥ずかしいことです」とうな垂れるしかない。これが「機の深信」であり、かくしてこれもまた他力であることが明らかになります。「機の深信」は「法の深信」とともに如来より賜りたる信としてひとつです。

タグ:親鸞を読む
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