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本文1 [『教行信証』精読2(その1)]

 ※これから「『教行信証』精読2」をはじめます。以前の「『教行信証』精読1」のつづきです。
            第1回 念仏成仏これ真宗―法照

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 これまで龍樹からはじまり、天親、曇鸞、道綽、善導と、正依(しょうえ)の高僧たちから引用されてきましたが、それにつづいて今度は中国の傍依(ぼうえ)の師たちから引用されます。その一人目は唐代の僧、法照(ほっしょう)です。

 『浄土五会念仏(ごえねんぶつ)略法事儀讃』(法照の作。五会法事讃と略す)にいはく、「それ如来、教を設けたまふに、広略、根に随ふ(広く詳しく説くか、簡略に説くかは教えを受けるものの資質にしたがう)。つひに実相に帰せしめんとなり。真の無生を得んものには、たれかよくこれを与へんや。しかるに念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。弥陀法王、四十八願の名号をもつて、ここに仏、願力を事として衆生を度したまふ。乃至 如来つねに三昧海のなかにして、細綿の手(指の間に水かきのある手、仏の三十二相の一つ)を挙げたまひて、父の王(釈迦の父、浄飯王)にいうてのたまはく、王いま坐禅して、ただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや(念を離れて無念を求めることができましょうか)。生を離れて無生をもとめんや。相好(そうごう、形)をはなれて法身を求めんや。文(もん)を離れて解脱をもとめんやと。乃至 それ大いなるかな、至理の真法、一如にして物を化し、人を利す。弘誓各別なるがゆゑに(その誓願がそれぞれ異なりますから)、わが釈迦、濁世(じょくせ、五濁悪世)に応生し、阿弥陀、浄土に出現したまふ。方は穢浄両殊なりといへども利益斉一なり。もし修し易く証し易きは、まことにただ浄土の教門なり。しかるにかの西方は殊妙にして(ことに優れ)、その国土に比(なら)びがたし(他に比べられるところはありません)。またかざるに百宝の蓮(はちす)をもつてす。九品にひらいて、もつて人を収むること、それ仏の名号なりと(九品の人を収めてくれることは、名号のはたらきです)。乃至

 (現代語訳) 法照の『五会法事讃』にこうあります。「釈迦如来は衆生の機根に応じて、あるときは広く、あるときは略して法を説き、ついには実相に至らせようとしてくださいますが、しかしだれが無生無滅の境地に至ることができましょうか。ところが念仏三昧はまことにこの上ない深妙の法門であり、弥陀は四十八願の名号によって、仏の願力をもって衆生を救ってくださいます。(中略)釈迦如来はつねに三昧の中にあり、細やかで綿のような手をあげて、父の王に言われます、王よ、いま静かに座り念仏すべきです。念を離れて無念を求めたり、生を離れて無生を求めたり、有相を離れて無相の法身を求めたり、ことばを離れて解脱を求めたりしても凡夫のよくするところではありませんと。(中略)大いなるかな、真如の理法は衆生を教化し利益を与えてくれます。その誓願が異なることにより、釈迦は穢土に、弥陀は浄土に出現されましたが、衆生を利益することにおいては何ひとつ違うところはありません。修めやすくさとりやすいのはまことに浄土の教門です。西方浄土はことに優れており、他にくらべられるものはありません。百もの宝で飾られ、蓮の華は九品の人々に応じて開きますが、そのように往生人をおさめてくれることは、これ実に弥陀の名号のはたらきです。

タグ:親鸞を読む
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