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本文3 [『教行信証』精読2(その7)]

(7)本文3

 次は『五会法事讃』の讃文の二つ目です。

 『仏本行経』による。法照。なにものをかこれを名づけて正法とする。もし道理によらばこれ真宗(真実の教え)なり。好悪いまの時すべからく決択(けっちゃく)すべし。一々に子細朦朧(もうりょう、曖昧)することなかれ。正法よく世間を超出す。持戒・坐禅を正法と名づく。念仏成仏はこれ真宗なり。仏言を取らざるをば外道と名づく。因果を撥無(はちむ)する見を空とす。正法よく世間を超出す。禅・律いかんぞこれ正法ならん。念仏三昧はこれ真宗なり。性を見、心をさとるはすなはちこれ仏なり。いかんが道理相応せざらん(念仏して仏性を見、悟りをひらいて仏となるというのはまことに道理にあった教えではありませんか)。略抄

 (現代語訳) 『仏本行経』による讃文。法照
 どのようなものを正法と言うのでしょう。どのような道理が真の教えでしょうか。いまこそ是非善悪の決着をつけ、細かいところまで曖昧であってはいけません。正法というものは世間のさまざまな教えから超出しているものです。持戒や坐禅は正法と名づけられますが、念仏して仏になるという教えこそ真の教えです。釈迦のことばをとらないものを外道といいます。縁起の教えを否定する見方は空しい。正法は世間のさまざまな教えから超出しています。坐禅や持戒がどうして正法と言えるでしょう。念仏三昧こそ真宗です。念仏して仏性をみ、仏となるというのはまことに道理にあった教えではありませんか。

 三つの文がつなげられています(それぞれの文の間に「正法よく世間に超出す」とあります)。法照はここで「禅律いかんぞこれ正法ならん。念仏三昧はこれ真宗なり」と決着をつけています。禅宗・律宗という当時の中国仏教界を代表する教えをおいて、念仏宗こそ真宗であると断言するのです。

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浄土の荘厳 [『教行信証』精読2(その6)]

(6)浄土の荘厳

 さて、親鸞が言うように観音・勢至の来迎が臨終ではなく平生のことであるとしますと、「六神通を具し、自在をう」ることや「老病を除き、無常を離る」ことはどうでしょう。これらもまた真実の信心をえたそのときであるとしていいものでしょうか。いかに何でも天眼通や天耳通を得たり、老病から解放されるのが今生のことであるとするのは無理があると言わなければなりません。としますと「信心のさだまるとき往生またさだまる」という親鸞のスタンスからして、このあたりのことはどのように了解できるでしょう。
 この問題はここのことだけではありません。浄土の諸経典を読みますと、往生をした暁にどのような世界が目の前に広がるか、そのすばらしさがいやというほど展開されています(正直、退屈します)。それはもう文字通り「この世のものとは思えない」光景です。そこから、往生するというのは、穢土で過ごした今生が終わったのちに浄土へ往くことであるという固い信念がつくられることになります。さてしかし、ここで素朴な疑問が生まれます。死んだ先のことがどうして分かるのか、それはただ想像力を駆使してすばらしい世界を思い描いているだけではないのか、と。
 その通りと答えるしかありません。浄土の荘厳は物語です。そもそも浄土の教えはすべて物語のことばで語られています。宇宙の願いがかすかな信号として送られてくるのを傍受して、それをことばで語ろうとすると物語にならざるをえないということです。むかし法蔵菩薩が苦しみ悩んでいる一切衆生を救おうと思い、そのためにすばらしい浄土を建立してそこに迎え入れようと誓われた。それがめでたく成就し、法蔵菩薩はいま阿弥陀仏となられ安養浄土におわす、と。このように物語られますと、いま現にいる娑婆世界とはおよそ異なる浄土は、この世のいのちが尽きたのちに往くしかありません。
 さてしかし大事なことは、弥陀の本願というかたちで語られた物語は、あくまで宇宙の願いを伝えるための手立てであるということです。それをたよりとして宇宙の願いに気づくことが求められているのです。そして宇宙の願い(弥陀の本願)は、われらがそれに気づけば、そのときもうすでに成就しているのです。もう浄土はそこに現在しているのです、臨終をまつことはありません、来迎をたのむこともありません。

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観音・勢至おのづから来り迎へたまふ [『教行信証』精読2(その5)]

(5)観音・勢至おのづから来り迎へたまふ

 この文は、「名を称するのみ」で、浄土へ「往くこと」ができ、「観音・勢至おのづから来り迎へたま」い、さらには「罪消除すること」ができ、「六神通を具し、自在」をえることができるなど、さまざまな功徳がえられると述べるのですが、さて問題はそれがいつのことかということです。『称讃浄土経』によりますと、観音勢至の来迎をうけ浄土に往生するのは臨終のときとなっていますから、おそらく法照もこれらのことはみないのち終わったのちのこととしてこの文を書いていると思われますが、親鸞はちょっと、いや、かなり違う角度からこれを読みます。
 『唯信鈔文意』の該当箇所を引用しますと、こうあります。「観音勢至自来迎といふは、南無阿弥陀仏は智慧の名号なれば、この不可思議光仏の御なを信受して憶念すれば、観音・勢至はかならずかげのかたちにそえるがごとくなり。…弥陀無数の化仏・無数の化観世音・化大勢至等の無量無数の聖聚、みづからつねにときをきらはず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそひたまひてまもりたまふゆへに、みづからとまふすなり」。これをみますと、観音・勢至が「来り迎へたまふ」のはとくに臨終のことではなく、「真実信心をえたるひと」に「ときをきらはず、ところをへだてず」、「かげのかたちにそえるがごとく」寄り添ってくださると読めます。
 親鸞は弟子への手紙のなかではっきり言っています、「来迎は諸行往生(さまざまな行により往生をめざす立場)にあり。自力の行者なるがゆへに。臨終といふことは諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり」と(『末燈鈔』第1通)。そしてさらにこう言います、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚のくらゐに住す。このゆへに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり」と。親鸞のスタンスはきわめて明らかで、そこからしますと経に観音・勢至の来迎と説かれているのは、観音・勢至がいつも信心の人に寄り添い、その身を護ってくださるという意味になります。

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本文2 [『教行信証』精読2(その4)]

(4)本文2

 『五会法事讃』の讃文が五つ引かれますが、その一つ目です。

 『称讃浄土経』(『阿弥陀経』の異訳)による、釈法照。如来の尊号は、はなはだ分明(ぶんみょう)なり。十方世界にあまねく流行(るぎょう)せしむ。ただ名(みな)を称するのみありて、みな往くことを得。観音・勢至おのづから来り迎へたまふ。弥陀の本願ことに超殊せり(特別に勝れている)。慈悲方便して凡夫を引く。一切衆生みな度脱す。名を称すれば、すなはち罪消除することを得。凡夫もし西方に到ることを得れば、曠劫塵沙のつみ消亡す。六神通を具し自在を得。永く老病を除き無常を離る。

 注 天眼通(すべてを見通す)、天耳通(すべてを聞く)、他心通(人の心を知る)、宿命通(過去を知る)、神足通(望むところに自在にいける)、漏尽通(煩悩を滅尽させる)。四十八願のなかの、第5願から第10願にこれが誓われている。

 (現代語訳) 『称讃浄土教』による讃文。法照の作。
 弥陀の名号ははなはだ明らかであり、世界の隅々にまで行き届いています。それを聞いてただ称名するだけで、みな浄土に往くことができます。観音・勢至の両菩薩がおのずから迎えに来てくださいます。弥陀の本願はことに優れていて、大慈大悲の心でさまざまな方便をめぐらしわれら凡夫を導いてくださり、一切の衆生が解脱することができます。名号を称えれば、たちまち罪を除くことができます。西方浄土に往くことができれば、これまで積み重ねてきたおびただしい罪がみななくなります。六神通をそなえて自在に生きることができ、老病の悩みがなくなり無常の悲しみから逃れられます。

 前に触れましたように、親鸞は『唯信鈔文意』において法照の文を二つ解説していますが、その一つがここに引用された文の前半(「おのづから来り迎へたまふ」まで)です。そこでその親鸞の解説を参照しながら、この讃文の意味するところを考えていきたいと思います。

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本願と名号 [『教行信証』精読2(その3)]

(3)本願と名号

 本願のなかに名号がしばしば登場し、ほとんど場合、その後に「聞きて」を伴って出てくると言いましたが、ただ一つ例外があります。それが第17願で、そこでは名号は諸仏が「称える」ことになっています。その他の願において衆生が聞くことになる名号は、第17願において諸仏が称えるわけです。「諸仏が名号を称え、衆生がそれを聞く」という構図が貫かれています。諸仏が名号を称えるのは弥陀を讃えるということですが、弥陀の何を讃えるかと言うと、つまるところ弥陀の本願を讃えるわけです。かくして弥陀の本願は、諸仏がそれを讃えて名号を称えることにより一切衆生のもとに届けられることになります。
 ここに本願と名号の関係をはっきり見て取ることができます。本願は単なる願いとしてあるだけでは力とならず、それが名号により一切衆生に届けられてはじめて救済のはたらきをすることができるということです。しかもその名号の用意も本願のなかで(第17願で)なされているということ、ここに両者の関係をみることができます。本願は、それが一切衆生に届けられるようにするための名号まで含んでいるということです。かくして本願と名号は一体であることが明らかになりました。願はそれを実現するための行を伴っているのです。
 これが「仏願力をこととして衆生を度したまふ」ということですが、さてではわれら衆生の信心と念仏はどうなるのでしょう。願も行もすでに弥陀により整えられているとしますと、われらの出番がなくなるのではないでしょうか。それに答えてくれるのが第18願です。「十方の衆生、心をいたし信楽してわがくにに生れんとおもふて、乃至十念せん」とありますが、「心をいたし信楽して」(信心)とは「その名号を聞きて」(18願成就文)ということに他なりません。信じるとはすなわち名号が聞こえるということ(聞名)です。そして名号が聞こえた喜びが声となって口をついて出る、これが「乃至十念」(念仏)です。
 名号が聞こえ、それにこだまするように名号が口をついて出る、それが救いそのものです。第18願成就文はそのことを「すなはち往生をえ、不退転に住す(即得往生、住不退転)」と言います。

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四十八願の名号 [『教行信証』精読2(その2)]

(2)四十八願の名号

 法照という人は唐代の僧ですが、五会念仏をはじめたことでよく知られています。五会念仏とは南無阿弥陀仏を五種類の曲調にのせて称えることをいい、皇帝の命で宮中において五会念仏を修することもあって大きな広がりを見せたようです。また延暦寺の円仁が五台山でこの五会念仏を学び、比叡山に伝えたことで、山の念仏として継承されていきました(親鸞はその常行三昧堂の堂僧をつとめていたことが恵信尼により証言されています)。親鸞は『唯信鈔文意』において法照の文(この後に出てきます)を詳しく解説するなかで、法照という人を「唐朝の光明寺の善導和尚の化身なり。このゆへに後善導とまふすなり」と紹介しています。
 さて『五会法事讃』という書物は、この五会念仏の意義や行儀作法を述べ、さらに念仏の讃文を集めたものですが、ここに引用されているのはその序分の三つの文です(後で、さらに五つの讃文が引かれます)。見られるように、聖道門において無念・無相の境地を求めるのと、浄土門において念仏三昧を修するのとを対比して、「修しやすく証しやすきは、まことにただ浄土の教門なり」と結論します。なぜ浄土の教門が「修しやすく証しやすき」かいうと、それが他の行とくらべて簡単であるからということよりも、「弥陀法王、四十八願の名号をもつて、ここに仏願力をこととして衆生を度したまふ」からであるということ、これが肝心でしょう。
 ここで「四十八願の名号をもつて」とあることに注目して、本願と名号の関係をあらためて考えてみましょう。本願と名号はつなげて言われるのがしばしばで、たとえば親鸞も「正信偈」で「本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)」と言っています。ぼくらは何となく本願と名号は別ものであるように思っていますが、四十八願を子細に見ますと、そこに名号ということば(乃至はそれと同じ意味のことば、たとえば「わが名」あるいは「わが名字」)が実にしばしば登場します(13願に及びます)。名号は本願のなかにしっかり埋め込まれているのです。そして名号ということばはほとんどの場合「聞きて」を伴います。本願において、名号は称えるものではなく、聞くものであるということ、これがきわめて重要な意味をもちます。

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本文1 [『教行信証』精読2(その1)]

 ※これから「『教行信証』精読2」をはじめます。以前の「『教行信証』精読1」のつづきです。
            第1回 念仏成仏これ真宗―法照

(1)本文1

 これまで龍樹からはじまり、天親、曇鸞、道綽、善導と、正依(しょうえ)の高僧たちから引用されてきましたが、それにつづいて今度は中国の傍依(ぼうえ)の師たちから引用されます。その一人目は唐代の僧、法照(ほっしょう)です。

 『浄土五会念仏(ごえねんぶつ)略法事儀讃』(法照の作。五会法事讃と略す)にいはく、「それ如来、教を設けたまふに、広略、根に随ふ(広く詳しく説くか、簡略に説くかは教えを受けるものの資質にしたがう)。つひに実相に帰せしめんとなり。真の無生を得んものには、たれかよくこれを与へんや。しかるに念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。弥陀法王、四十八願の名号をもつて、ここに仏、願力を事として衆生を度したまふ。乃至 如来つねに三昧海のなかにして、細綿の手(指の間に水かきのある手、仏の三十二相の一つ)を挙げたまひて、父の王(釈迦の父、浄飯王)にいうてのたまはく、王いま坐禅して、ただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや(念を離れて無念を求めることができましょうか)。生を離れて無生をもとめんや。相好(そうごう、形)をはなれて法身を求めんや。文(もん)を離れて解脱をもとめんやと。乃至 それ大いなるかな、至理の真法、一如にして物を化し、人を利す。弘誓各別なるがゆゑに(その誓願がそれぞれ異なりますから)、わが釈迦、濁世(じょくせ、五濁悪世)に応生し、阿弥陀、浄土に出現したまふ。方は穢浄両殊なりといへども利益斉一なり。もし修し易く証し易きは、まことにただ浄土の教門なり。しかるにかの西方は殊妙にして(ことに優れ)、その国土に比(なら)びがたし(他に比べられるところはありません)。またかざるに百宝の蓮(はちす)をもつてす。九品にひらいて、もつて人を収むること、それ仏の名号なりと(九品の人を収めてくれることは、名号のはたらきです)。乃至

 (現代語訳) 法照の『五会法事讃』にこうあります。「釈迦如来は衆生の機根に応じて、あるときは広く、あるときは略して法を説き、ついには実相に至らせようとしてくださいますが、しかしだれが無生無滅の境地に至ることができましょうか。ところが念仏三昧はまことにこの上ない深妙の法門であり、弥陀は四十八願の名号によって、仏の願力をもって衆生を救ってくださいます。(中略)釈迦如来はつねに三昧の中にあり、細やかで綿のような手をあげて、父の王に言われます、王よ、いま静かに座り念仏すべきです。念を離れて無念を求めたり、生を離れて無生を求めたり、有相を離れて無相の法身を求めたり、ことばを離れて解脱を求めたりしても凡夫のよくするところではありませんと。(中略)大いなるかな、真如の理法は衆生を教化し利益を与えてくれます。その誓願が異なることにより、釈迦は穢土に、弥陀は浄土に出現されましたが、衆生を利益することにおいては何ひとつ違うところはありません。修めやすくさとりやすいのはまことに浄土の教門です。西方浄土はことに優れており、他にくらべられるものはありません。百もの宝で飾られ、蓮の華は九品の人々に応じて開きますが、そのように往生人をおさめてくれることは、これ実に弥陀の名号のはたらきです。

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名利に人師をこのむなり [親鸞最晩年の和讃を読む(その113)]

(11)名利に人師をこのむなり

 ここにまた紛れもない親鸞その人が顔を出しています。親鸞という人は、この頃はやりのことばでは自虐的とも言わねばならないほど己の偽らざる姿をさらけ出します。親鸞と同時代の人で言いますと、明恵(親鸞と同い年です)や道元(親鸞より27歳若年)には考えられないことです。彼らにも同じような思いがあったのかもしれませんが、それをおくびにも出しません。どうして親鸞はこうもあからさまに己をさらけ出すのでしょう。何かもうそうせざるを得ない力がはたらいているとしか言いようがありません。
 前に後悔と懺悔の違いを考えました。後悔も懺悔もどこかから「そんなことでいいのか」という声が聞こえ、その前にうなだれる点では同じですが、後悔の場合はその声が己の内からやってくるのに対して、懺悔の場合はそれが外からやってくると。明恵や道元でしたら内なる声に促されて後悔し反省することもあるでしょうが、親鸞の場合はどこか外からやってくる声が突き刺さるのではないでしょうか。そして後悔や反省は自分のなかですれば済むことであり、それをあえて外にさらけ出す必要はありませんが、外からやってきた声が突き刺さってきたときは、もう逃げ隠れできず、「お恥ずかしい」と声に出さざるをえないのだと思います。
 「おまえはまた偉そうな顔をして人前で説法しているが、おまえにそんな資格があるのか」という声が飛び込んできますと、「恥ずべし、傷むべし」という思いがこみ上げ、「小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」とつぶやかざるをえなくなる。これが悲嘆であることは間違いありませんが、でも不思議なるかな、同時に慶びでもあるのです。どうしてかといいますと、「そんなことでいいのか」の声は「そんなおまえのままで帰っておいで」という声を伴っているからです。

                (第12回 完)

 ※これまで12回にわたって「親鸞最晩年の和讃を読む」を掲載してきましたが、以上で幕を閉じまして、明日からは再び「『教行信証』精読」に戻ります。「行巻」の途中までで中断していましたが、これから「行巻」最後の「正信偈」まで読み進める予定です。

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苦しみながら苦しみから抜け出る [親鸞最晩年の和讃を読む(その112)]

(10)苦しみながら苦しみから抜け出る

 煩悩のあるところに苦があると気づくことで、苦がそのほんとうの姿をあらわすのだとしましたら、むしろそんな気づきはない方がいいのではないかと言いたくなります。人生苦もありゃ楽もあると思って生きている方がいいではないかと。しかし、苦もありゃ楽もあるとしますと、何とかして苦を減らし楽を増やさなければと思って必死になるのが人情です。そしてそのために人と激しい競争をして傷つき、また人を傷つけることになる。それが人生というものさ、と思えればいいでしょうが、そこに何とも言えない虚しさを感じ、寂しさを感じるときがあります。そのときが気づきのはじまりです。どこかから声がするのです、「そんなことでいいのか」と。
 生きることは苦しみであり、それは煩悩とともにあるという気づきは、苦しみながら苦しみから抜け出ることです。苦しみの実相が透き通って見えてきたとき、苦しみのなかにありながら、もうすでに苦しみから脱出しています。これは心が何かに囚われているとき、そのことに気づきますと、囚われていながら、もうすでに囚われから抜け出ているのと同じです。煩悩とは我執という囚われに他なりませんから、その囚われに気づくことで、囚われつつ、囚われから抜け出ることができるのです。囚われていながら、それに足をとられることなく、変な言い回しですが、安心して囚われの人生を歩むことができる。仏教は「めざめ」の宗教だというのは、そういうことです。
 さて善光寺和讃のあと自然法爾章とよばれる親鸞の法語(聞き書き)がありますが、それは割愛しまして、最後におかれた和讃を読んでおきましょう。

 是非しらず邪正(じゃしょう)もわかぬ
  このみなり
  小慈小悲もなけれども
  名利2に人師(にんし)をこのむなり(116)

 注1 正しいか正しくないかのみわけもつかない。
 注2 名聞利養の略。名誉と利益。

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めざめ [親鸞最晩年の和讃を読む(その111)]

(9)めざめ

 インドのバラモン教や日本の神道は「まじなひ」の宗教であるのに対して、仏教は「めざめ」の宗教と言うことができます。「まじなひ」とは、何か神秘的な力を利用して世界のありようを自分の都合のいいように変えようとすることですが、「めざめ」とは、世界のありようを、ありのままに見ることです。これまで夢をみていたが、あるときふとめざめて世界のありのままの姿(これを仏教では実相とか真如といいます)に気づく。仏教が縁起というのは世界の実相のことで、それにめざめよと仏教は説くのです。さてしかし「まじなひ」によってこの世の幸せを招き寄せようというのはよく分かりますが、縁起に「めざめる」ことにいったいどんな功徳があるのでしょう。
 縁起に「めざめる」とは、四諦の教えで言うと、生きることは苦しみであり(これが苦諦です)、その苦しみは煩悩(我執)によってもたらされると気づくことです(これが集諦です)。それを裏返せば、煩悩のないところには苦はないということになります(これが滅諦です)。念のためですが、苦をなくすために煩悩を消さなければならないということではありません。なるほど煩悩を消すことができれば苦はなくなるでしょうが、と同時に煩悩とつながっている生そのものが消えてしまいます。
 さてでは「煩悩のあるところに苦があり、煩悩のないところには苦がない」と気づくことで何が起るのでしょう。その気づきにより苦がなくなるわけではありません。むしろ、その気づきによって苦がはっきり姿をあらわすのです。
 煩悩のあるところに苦があると気づくまでは、生きることには苦もあれば楽もあると思っています。人生において、あら嬉しや、あら楽しや、と思うことはたくさんあります。しかし釈迦は言います、「楽であろうと、苦であろうと、非苦非楽であろうと、内的にも外的にも、感受されたものはすべて苦しみであると知る」(テーリーガータ)。苦受はもちろん、楽受もまた苦であるというのです。『無量寿経』「三毒段」の印象的なことばでは、「田あれば田を憂い、宅あれば宅を憂い、牛馬六畜(ごめろくちく)・奴婢・銭財・衣食・什物(じゅうもつ、家財道具)、またともにこれを憂う」のです。田がないことは苦ですが、田があることもまた苦であるということ。そのことに気づく。

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