SSブログ

本文2 [『教行信証』精読2(その4)]

(4)本文2

 『五会法事讃』の讃文が五つ引かれますが、その一つ目です。

 『称讃浄土経』(『阿弥陀経』の異訳)による、釈法照。如来の尊号は、はなはだ分明(ぶんみょう)なり。十方世界にあまねく流行(るぎょう)せしむ。ただ名(みな)を称するのみありて、みな往くことを得。観音・勢至おのづから来り迎へたまふ。弥陀の本願ことに超殊せり(特別に勝れている)。慈悲方便して凡夫を引く。一切衆生みな度脱す。名を称すれば、すなはち罪消除することを得。凡夫もし西方に到ることを得れば、曠劫塵沙のつみ消亡す。六神通を具し自在を得。永く老病を除き無常を離る。

 注 天眼通(すべてを見通す)、天耳通(すべてを聞く)、他心通(人の心を知る)、宿命通(過去を知る)、神足通(望むところに自在にいける)、漏尽通(煩悩を滅尽させる)。四十八願のなかの、第5願から第10願にこれが誓われている。

 (現代語訳) 『称讃浄土教』による讃文。法照の作。
 弥陀の名号ははなはだ明らかであり、世界の隅々にまで行き届いています。それを聞いてただ称名するだけで、みな浄土に往くことができます。観音・勢至の両菩薩がおのずから迎えに来てくださいます。弥陀の本願はことに優れていて、大慈大悲の心でさまざまな方便をめぐらしわれら凡夫を導いてくださり、一切の衆生が解脱することができます。名号を称えれば、たちまち罪を除くことができます。西方浄土に往くことができれば、これまで積み重ねてきたおびただしい罪がみななくなります。六神通をそなえて自在に生きることができ、老病の悩みがなくなり無常の悲しみから逃れられます。

 前に触れましたように、親鸞は『唯信鈔文意』において法照の文を二つ解説していますが、その一つがここに引用された文の前半(「おのづから来り迎へたまふ」まで)です。そこでその親鸞の解説を参照しながら、この讃文の意味するところを考えていきたいと思います。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。