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本文3 [『教行信証』精読2(その79)]

(10)本文3

 さらに続きます。両重因縁とよばれる段です。

 まことに知んぬ、徳号の慈父(じぶ)ましまさずは能生の因闕(か)けなん。光明の悲母(ひも)ましまさずは所生の縁乖(そむ)きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識(ごっしき、過去の業による識別作用のこと。ここでは信心を譬える)にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明・名の父母(ぶも)、これすなはち外縁(げえん)とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。ゆゑに宗師(善導)は、「光明・名号をもつて十方を摂化(せっけ、摂取し、化益すること)したまふ、ただ信心をして求念(ぐねん、往生を願い求めること)せしむ」とのたまへり。また「念仏成仏これ真宗」といへり。また「真宗遇ひがたし」といへるをや。知るべし。

 (現代語訳) 明らかに知ることができました。名号という慈父がおわしませんと往生の因が欠けます。光明という悲母がおわしませんと往生の縁がありません。このように名号・光明の因縁がそろったとしましても、信心がありませんと浄土往生はかないません。真実の信心こそ往生の内なる因であり、光明と名号の父母は外なる縁ということです。内と外の因縁がそろって、はじめて往生浄土の身となることができるのです。こんなわけで善導大士は、弥陀は光明と名号をもって十方衆生を摂取してくださるのであり、ただ信心をもって往生浄土を願えばいいのだと言われました。また念仏して成仏するのが真実の教えであるということばもあります。さらには真実の教えに遇うことは難しいとも言われます。よく味わうべきです。

 両重因縁といいますのは、まず名号という因と光明という縁、次いで信心という因と光明名号という縁、この二重の因縁により往生という果が生じるということです。名号と光明をたまわり往生させていただくのだけれども(これが第一重です)、そこに信心がないと往生できないというのです(これが第二重)。

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即ちのとき [『教行信証』精読2(その78)]

(9)即ちのとき

 龍樹は「即時入必定」と言っていましたが、この「即ちのとき」について思いを廻らせてみましょう。
 本願名号の行信をえることで正定聚不退の位につくことができると言われます。宇宙のかなたからやってくるかすかな信号を傍受することにより正定聚不退となるということですが、この「行信をえることで正定聚不退の位につく」という言い方には注意が必要です。これを普通の原因と結果の関係ととらえてしまいますと、そこに時間の流れがはさまります。たとえそれがどれほど短い時間であっても、原因としての行信と結果としての正定聚とは時間的に隔てられます。
 しかし行信をえることと正定聚不退となることの間には時間の流れはありません。その意味では、行信をえることにより正定聚不退となるのではなく、行信をえることが取りも直さず正定聚不退となることです。「即ちのとき」とは言うものの、両者は時間的な関係ではないということです。原因と結果の概念は何かが実際に変化するときにつかわれます。しかし行信をえて正定聚となると言っても、何かが実際に変化するわけではありません。これまで正定聚でなかったものが、あらたに正定聚となるのでしたら、実際の変化でしょうが、すでに正定聚であることに「気づく」だけで、そこに何の変化もありません。
 行信は本願名号に何ひとつつけ加えるわけではありません、ただ本願名号に気づくだけです。それは「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままですでに「ほとけのいのち」であることに気づくことでした。摂取不捨とはそういうことです。そしてそれをさらに言い換えれば、もうすでに正定聚不退であることに気づくことでもあるのです。「かならず仏となる身」であると気づき、もう「仏とひとし」と気づくことです。このように考えてきますと、行信をえることは、正定聚不退となることと別ではありません。行信をえることが、取りも直さず正定聚不退となることです。

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摂取してすてたまはず [『教行信証』精読2(その77)]

(8)摂取してすてたまはず

 宇宙のかなたからやってくるかすかな信号(本願名号)を傍受したとき何が起こるのでしょう。親鸞はこれまでの引用に出てきたことばから重要なものを四つ上げています。「歓喜地」と「摂取不捨」と「即時入必定」と「入正定聚之数」です。
 歓喜地は龍樹のところで詳しくみましたのでいいとしまして、次の摂取不捨に注目しましょう。ここでは善導のことば、「摂取してすてたまはず。かるがゆへに阿弥陀仏となづけたてまつる」が上げられます。正確には「ただ念仏の衆生をみそなはして、摂取して捨てたまはざるがゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる」(『往生礼讃』)ですが、これは『観経』の「(弥陀の)光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」と『小経』の「かの仏の光明無量にして、十方の国をてらすに障礙するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす」をひとつに合わせてつくられたことばです。親鸞はこの文をもとに「十方微塵世界の、念仏の衆生をみそなはし、摂取してすてざれば、阿弥陀となづけたてまつる」と詠っています(『浄土和讃』)。
 摂取の摂(もとは攝)という文字は、辞書によりますと、「手で引き上げてもつ」という意味で、つまりは「とる」ということです(摂政とは帝の代わりに政を「とる」こと、あるいはその職を意味します)。これまでときどきゲットという言い方をしてきましたが、摂はまさにゲットすることで、ただ弥陀は手でゲットするのではなく、光明(と名号)でゲットするのです。親鸞は上の和讃の摂取に左訓して「摂はものの逃ぐるを追はへとるなり」と解説してくれますが、どんなに逃げ回ろうとしても、光明はそれを追いかけてゲットするというのです。だからこそ阿弥陀、すなわちアミターバ、無量の光とよぶのだといいます。無量の光に照らされないものはありません。
 さて弥陀の光明に摂取されることが、必定に入ることであり、正定聚の数に入ることに他なりません。必定も正定聚も「かならず仏となる身」ですが、それは言いかえれば、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままですでに「ほとけのいのち」であるということであり、弥陀の光明に摂取されるということは、そのことに気づかせてもらえることに他なりません。

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行信ということば [『教行信証』精読2(その76)]

(7)行信ということば

 この文のなかに行信ということばが二度出てきます、「真実の行信をうれば」と「この行信に帰入すれば」と。言うまでもなく念仏が行で信心が信であり、ふたつつなげて行信としているのですが、これをしかし「行と信」というように理解すべきではありません。行は信であり、信は行であると理解すべきです。このことについては『末燈鈔』に親鸞の丁寧な解説がありますので、読んでおきましょう。「さては仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。…これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかいを申すなり」(覚信房宛て第11通)。
 行も信も「弥陀の御ちかひ」であるというのですが、いささか謎めいて聞こえます。普通の理解では、「弥陀の御ちかひ」を信じるのが信で、その上で名号を称えるのが行となりますが、信も行も「弥陀の御ちかひ」だからひとつであると言うのです。さてしかしここまで読んできましたわれらとしてはこの一見謎めいたことばも素直に頷くことができます。そのあたりの消息を振り返っておきますと、信も行も「弥陀の御ちかひ」に何ひとつつけ加えるものではなく、むこうからやってきた「よきたより」を聞かせていただき(信)、それにこだまする(行)だけということです。
 宇宙のかなたからやってきたかすかな信号(たより)がこころに届く、これが信です(信は「信じる」ことであるとともに「たより」でもあるというおもしろいことばです)。信号が届いて、それを信じるのではありません、届いたことが取りも直さず信じることです。信号を傍受すること、これが信ですから、信は信号に何ひとつつけ加えるわけではありません。そしてその喜びがおのずから口をついて出る、これが行です。信号が届いて、それにこちらから返事をするのではありません、届いた信号にこだまするだけです。「ヤッホー」という声に「ヤッホー」と反射するだけですから、行もまた信号に何ひとつつけ加えるわけではありません。
 かくして「行と信とは御ちかいを申すなり」ということになります。

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本文2 [『教行信証』精読2(その75)]

(6)本文2

 本文1のつづきです。

 しかれば、真実の行信を獲れば、心に歓喜おほきがゆゑに、これを歓喜地(初地のこと。菩薩道52階位のうち、第41階位。不退の位)と名づく。これを初果(小乗の声聞が得る四果の第一。預流果といい、四諦をえて見惑を断じた境地)に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠(すいめん)し懶惰(らんだ)なれども二十九有に至らず(二十八回までは人天に転生することはあるが、それ以上は苦界に戻ることはない、という意味)。いかにいはんや十方群生海、この行信に帰入すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数(にゅうしょうじょうじゅしじゅ)」といへり。仰いでこれを憑むべし、もつぱらこれを行ずべきなり。

 (現代語訳) このように真実の信心・念仏の人になれば、こころは歓喜に溢れますから、この境地を初地、すなわち歓喜地というのです。これは小乗の初果、すなわち預流果にたとえられますが、初果に至れば、もうどれほど眠りこけようと、怠けようと、二十九生にはかならず成仏できるからです。ましてや本願の行信に入ることができれば、漏れることなく摂取され捨てられることはありません。だからこそ阿弥陀仏というのです。これが他力ということです。このことを龍樹大士は念仏の人は「直ちに不退の位に入る」と言われ、曇鸞大師は「正定聚のなかに入る」と言われるのです。仰いでこの行信をたのむべきです、もっぱらこの行信によるべきです。

 ここには行信をえたときの喜びが横溢しています。もうこれさえあれば、あとは何もいらないという嬉しさで一杯です。

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悪の海抜ゼロメートル地点 [『教行信証』精読2(その74)]

(5)悪の海抜ゼロメートル地点

 われらはみな一様に悪人である、これが親鸞の出発点です。われらはみな悪の海抜ゼロメートル地点にいるということ。ただそれに気づいている人と気づいていない人がいて、親鸞は前者を悪人といい、後者を善人と言っているのです。さて、われらはみな悪人であるというのはどういうことかと言いますと、みな例外なく無明のなかにあるということであり、あるいは我執のなかにあると言っても同じです。「われ」に囚われ、「わがもの」に囚われているということです。
 悪と言われますと、殺し、盗みなどが頭に浮び、それと無明や我執とはただちには結びつかないかもしれません(仏教で悪といえば、殺生・偸盗・邪婬・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・愚痴の十悪です)。そこから、みな一様に悪人であると言われると「ちょっと待ってよ」と不満顔になるのですが、十悪のなかに貪欲・瞋恚・愚痴が入っているように、悪と煩悩とは地続きであり、そして煩悩の根源には無明や我執があります。わたしは殺しや盗みとは無縁ですという人も、たまたまそうした宿縁がないだけのことで、「わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」(『歎異抄』第13章)と言わなければなりません。
 さて、われらはみな無明のなかにあるということは、みずからの力で自覚することができません。無明とは闇の中に閉ざされ真実が見えないということですが、生まれてこのかたずっと闇の中にいるものは、自分が闇の中にいることを知ることができません。深海に生まれ深海で死ぬ魚は、そこが闇であることを知る由もありません。光に遇うことではじめて「ああ、闇の中にいたのか」と気づくことができるのですが、無明に気づかせてくれる光とは弥陀の本願の光に他なりませんから、無明の気づきと本願の気づきはひとつであることになります。
 本願に気づいてはじめて無明に気づくのであり、無明すなわち悪に気づくことが本願に気づくことに他なりません。かくして己が悪人であることに気づいている悪人が本願の正機であることがすっきり了解できます。

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善人なをもて [『教行信証』精読2(その73)]

(4)善人なをもて

 「どんな」という語のつかいかたを考えてみますと、それが「悪人も」という否定的な主語につくときは、「救われる」という肯定的な述語が接続します。反対に、「どんな悪人も」という主語に「救われない」という否定的な述語が接続しますと不自然になります。ところが「どんな聖人も」という肯定的な主語の場合は、たとえば「堕落する」というような否定的な述語を伴うものであり、「どんな聖人も」という主語が「救われる」という肯定的な述語に接続しますと不自然に感じられます。
 どんな聖人も、どんな悪人も、念仏によってだけ救われる、別の道はない、という言い回しに「うん?」となるのは、悪人が念仏によってだけ救われるのはそうかもしれないが、聖人がどうして、と感じるからです。聖人なら念仏でなくても救われて当然ではないかと思うのです。現にこれまでずっと、聖人なら聖道門で救われるだろうが、罪業深重の凡夫は浄土門でしか救われないと言われてきたのではないでしょうか。ところが、どんな聖人も浄土門ではじめて救われると言われるものですから、「うん?」となるのです。
 ここには聖人(善人)と悪人の価値の転倒があります。これまでは「どんな悪人でも救われる」とされてきたのが、「どんな善人でも救われる」となったのです。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(『歎異抄』第3章)です。さてしかしこの破天荒な言い回しに素直に頷くためには、ここで善人・悪人ということばが何を意味しているかを了解する必要があります。ぼくらは普通、善人というのはこういう人で、悪人はこんなヤツというイメージをもっています。それを厳密に規定するのは難しくても、誰にも当てはまる善悪の基準があると思っています。
 しかし、この「善人なをもて云々」ということばで親鸞が言っているのはそのような客観的な善人・悪人のことではありません。善悪の客観的基準があることを否定するわけではありませんが、それを本願名号の立場から換骨奪胎して、善人とは「己が悪人であることに気づいていない悪人」であり、悪人とは「己が悪人であることに気づいている悪人」であると理解するのです。

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こだま [『教行信証』精読2(その72)]

(3)こだま

 もうひとつ確認しておきたいのは、弥陀の四十八願のなかに、念仏にあたる語は第18願に「乃至十念」とあるのみで他には見当たらないのに(第17願の「わが名を称する」は諸仏について言われていますから除外します)、名号にあたる語は第20願の「わが名号を聞きて」をはじめ、おびただしい数に上るということです。そして名号にあたる語には、この例にもありますように、そのあとにかならず「聞きて」ということばが続くということ、ここには重要なメッセージが潜んでいます。
 名号は何よりも「聞く」ものであり、しかる後に「称える」のであるということです。第18願の「乃至十念」も、その前に「至心信楽」とあり、信楽とは名号を聞くことに他なりません。親鸞はしばしば「聞くことが信ずることである」と述べますが、本願名号が聞こえてくることが取りも直さずそれを信じることです。まず名号を聞いて(信じて)、その後に称えるのです。南無阿弥陀仏はむこうから聞こえてくるものであるということ、そしてそれにこだまするようにわれらが称えるということです。
 むこうから聞こえてくるということが「如来からの回向」を意味し、われらはそれにこだまするだけということが「われらにとっての不回向」を意味します。こだまというものは、ただ反射するだけで、むこうからやってくる声に何ひとつ加えるわけではありません。われらの念仏も名号に何ひとつつけ加えません。「帰っておいで」という嬉しいたよりに、そのまま「はい、ただいま」とこだまするのが念仏ですから、これはやはり不回向の行と言わなければなりません。
 さてふたつめです。どんな聖人であれ、どんな悪人であれ、この不回向の行によってしか救われないということ、これ以外に道はないということです。
 この言い回しにはどこか不自然なところがあると感じられないでしょうか。「どんな悪人も、この行によってだけ救われる」というのなら、なるほどそういうこともあろうかと頷くことができますが、「どんな聖人も、この行でだけ救われる」と言われますと、「うん?何か変だな」という気持ちが動きます。「どんな聖人も」と「救われる」とがうまく接合しないのです。

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不回向の行 [『教行信証』精読2(その71)]

(2)不回向の行

 一つ目の「念仏は不回向の行である」ということについて。まず「回向」の意味を確認しておきますと、サンスクリットの「パリナーマ」の訳で、己の修めた善を他に回らし向けることを言います。他に回らすというとき、「自己の救い」に回らすのと「他者の救い」に回らすのとがありますが、大乗の菩薩思想において、自利(自己の救い)はおのずから利他(他者の救い)とならねばならず、利他ではない自利はありえません。「われ人ともに救われん」とするところに大乗仏教のエッセンスがありますから、己の善を自他の救いに回らし向けることが回向ということになります。
 ところが念仏は不回向の行であるというのです。われらが回向するのではなく、如来から回向されるということですが、これはどういうことか。
 まず注目したいのは、念仏と名号は区別せずにつかわれることがしばしばあり、念仏と言うべきところを名号と言われるということです。たとえば「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せず」(「信巻」)ということばがそうで、この場合、厳密には念仏と言わなければならないところを名号と言っています。念仏とは名号を称えることですから、念仏と名号は明らかに別の概念ですが、こんなふうに区別なくつかわれてもさほど違和感がなく、すっと頭に入ります。
 ここには大事な秘密が隠されています。
 前に、念仏を「選ぶ」ことについて、われらが「選ぶ」ことと如来に「選ばれる」ことがひとつであるということに注目しました。われらが念仏を選んでいるには違いありませんが、実はその前に念仏は如来によって選ばれているということです。念仏と名号が区別なくつかわれるということにも同じ消息があります。念仏は「称える」ことであり、名号は「称えられる」ものですが、「称える」ことと「称えられる」ものがひとつとして区別できないということです。

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本文1 [『教行信証』精読2(その70)]

             第5回 不回向の行―自釈1

(1)本文1

 行巻のこれまでの歩みを振り返っておきますと、はじめに行とは何かについて、「大行といふは、すなはち無碍光如来のみなを称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり」と述べられ、それがまず経典において確かめられます。そして次にインド・中国・日本の高僧たちの要文を引きながら、念仏が大行である所以を明らかにしてきたのでした。そのボリュームはかなりのものでしたが、それが一応終わり、これまでを総括することばが出てきます。

 あきらかに知んぬ、これ凡聖(ぼんしょう、凡夫と聖者)自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行(如来より回向されるものであり、われらが回向するのではないということ)と名づくるなり。大小(大乗と小乗)の聖人、重軽(じゅうきょう)の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海(本願名号の功徳の海)に帰して念仏成仏すべし。ここをもつて『論の註』にいはく、「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生(四生-胎生・卵生・湿生・化生-のひとつ。浄土に忽然と生まれること)するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに」とのたまへり。以上

 (現代語訳) 以上のことから明らかです。念仏といいますのは、凡夫や聖者が自力でなす行ではありません。だからこそ不回向の行と名づけられます。大乗・小乗の聖者も、重・軽の悪人も、みな同じように本願名号の海に帰入して、念仏成仏するのです。『論註』にはこう言われます、浄土へはみな同じように蓮華の上に忽然と生まれるのであり、それはみな同じように念仏して生まれるのであって別の道によるのではないからです。

 念仏の行を総括して二つのことが述べられています。ひとつに念仏は自力の行ではなく、不回向の行であるということ。ふたつは聖人であれ悪人であれ、みな念仏により成仏するのであり、それ以外に道はないということ、この二つです。

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