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仏の本願によるがゆゑに [『教行信証』精読2(その69)]

(16)仏の本願によるがゆゑに

 なぜ念仏の道を選ぶのかといえば、「みなを称すれば、かならず生ずることをう」るからです。さてしかし、われらが念仏を選んだからといって、どうしてかならず往生できると断言できるのでしょう。
 法然自身、長い間この問いの前にたたずんでいたと思われます。浄土の教えでは、ただ念仏するだけで往生できると言われるが、どうしてそんなことが言えるのか。『観経』に、五逆十悪のものも臨終にたった十念するだけで往生できると書いてあるが、あれは世の凡愚たちに仏縁を結ばせるための方便にすぎないという批判がむかしからありました(別時意説とよばれ、実際は遠い未来、すなわち別時に得られる利益をいま得られるように説く方便の教えということです)。道綽や善導はこの批判に応答してきましたが、法然には依然として何かすっきりしないものがこころのなかにわだかまっていたのではないでしょうか。
 そんな法然の眼にあるとき善導『観経疏』の一節が飛び込んできたのでした。「一心にもはら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近をとはず、念々にすてざるをば、これを正定の業となづく。かの仏の願に順ずるがゆゑに」。法然はそれまでも『観経疏』を読んでいたに違いありませんが、そのときにはさほど気にすることなく読み過ごしていたのではないでしょうか。それが43歳の法然の眼を射たのです。そんな経験はときどきあります。以前に読んでいたはずですが、そのときには何とも思わなかった箇所が、時を隔てて読み返してみると、思いがけない光をはなってくる。機が熟したとしか言いようがありません。
 何が法然の心をとらえたのでしょう。「かの仏の願に順ずるがゆゑに」の一句、ここに彼は釘づけになった。これは、念仏を選んだのは、他の誰でもない、阿弥陀仏その人であるということです。阿弥陀仏が念仏を選んで、それをわれらに与えてくださった。だからわれらも安心して念仏を選ぶことができるのです。「みなを称すれば、かならず生ずることをう」と確信することができるのです。なぜならわれらが念仏して往生することが仏のもともとの願い(本願)だからです。
 念仏はわれらが選ぶのです、それは間違いない。でも、念仏はそれより前に阿弥陀仏に選ばれているのです。

                (第4回 完)

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われらが「ただ念仏」を選ぶのだが [『教行信証』精読2(その68)]

(15)われらが「ただ念仏」を選ぶのだが

 おもしろいテレビ番組がありました。「人体」という番組で、人間の身体の不思議を解き明かそうとするものですが、印象に残ったのは、脳があらゆる臓器に指令を下し、臓器はそれにしたがって動きを調整することで全体の統一がはかられているというイメージがありますが、実はそうではなく、それぞれの臓器同士が直接情報をやり取りすることで互いに調整し合っているということです。ぼくはそれを聞いて、これこそ仏教の縁起ではないかと思いました。「これあるに縁りて、かれあり、これ生ずるに縁りて、かれ生ず」というごとく、あらゆるものはお互い縦横無尽に繋がりあっていて、その繋がりから独立したものは何ひとつないということです(仏教では人間は五蘊すなわち色・受・想・行・識が集まりあい繋がりあっているとします)。
 さて、あらゆるものは互いに繋がりあっているというのはどういうことでしょう。ある人がこの道を歩くということは、紛れもなくその人が選んでそうしているのですが(別の道を選ぶこともできますし、もう歩くことをやめるという選択もあります)、でもその行為の背景には職場に行かなければならないという事情があり、そしてそれにはまた家族を養うために仕事をするということがあり、という具合にどんどん繋がりが広がっていきます。となりますと、確かに彼がこの道を歩くことを選んでいるのですが、それはもうそうせざるをえないからであり、その意味ではすでに選ばれているのです。「選ぶ」には違いないが、しかしそれは同時に「選ばれている」。ここには前に話題とした「能動と受動のあわい」(中動です)が姿をみせています。
 もとに戻ります。往生の業として他を選びすて、念仏のみを選びとるのは誰か、ということでした。それは源空聖人に勧められたわれら自身に違いありません。われらが「ただ念仏」の道を「選ぶ」のは天地がひっくり返っても動きません。しかし、念仏の道は実はすでに「選ばれている」のです。誰によって?因位の阿弥陀仏、すなわち法蔵菩薩によってです。それはいったいどういうことか。その答えは「みなを称すれば、かならず生ずることをう。仏の本願によるがゆへに」という文言に隠されています。

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われらが選ぶとは言っても [『教行信証』精読2(その67)]

(14)われらが選ぶとは言っても

 「選ぶ」ということですが、なるほどぼくらは朝起きてから夜寝るまで、いつも何かを選んでいます。生きるとは選ぶということです。
 一番はっきりするのが車の運転で、次から次へと選ばなければならないことが起こってきます。次の交差点では直進でいいのか、それとも右折するのか、ここでは右の車線をとるのがいいか、左の車線の方がいいのかなど、のべつ幕なしに選択がつきつけられます。しかし考えてみますと、それらの選択はその時々に白紙の状態からなされているのではなく、それに先立つ目的に規定されています。次の交差点で右折を選択するのは、めざす場所へ行くのにそれが近道であるからというように、ある選択はそれに先立つ選択から導かれていることが分かります。
 道を歩いている人に尋ねてみましょう、「あなたはどうしてこの道を歩いているのですか?」と。こんな答えが返ってきます、「駅に向かっているのですが」。以下、二人のやりとりです。
 「どうして駅に?」
 「そりゃ電車に乗るためですよ」
 「どうして電車に?」
 「職場に行くためです」
 「どうして職場に?」
 「どうしてって…、仕事をするためですよ」
 「どうして仕事を?」
 このあたりから険悪なムードが漂い始め、「いいかげんにしろよ、仕事をしなきゃ、食っていけないだろ」と怒り出すことでしょう。
 この会話をふりかえってみますと、この道を歩くという選択は、駅に行くという選択に規定され、駅に行くという選択は電車に乗るという選択に規定されるというように、それぞれの選択は前もって規定されていて、それらはいわば無意識裡になされていることが分かります。それぞれの行為をそのつど選んでいるには違いないのですが、実のところもうすでに選ばれているのです。そう言えば、この頃、高齢者ドライバーがブレーキとアクセルを踏み間違えて事故を起こすことが多いですが、ブレーキを踏むか、アクセルを踏むかは意識的に選択しているのではなく、身体が自動的に反応しています。そのつど選んでいるには違いないのですが、実は選ばれているのです。アクセルとブレーキを踏み間違えるということは、その自律的な選択に狂いが生じたということです。

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選択ということ [『教行信証』精読2(その66)]

(13)選択ということ

 『選択本願念仏集』は16章からなっていますが、その第1章「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、しかも聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文」(章のタイトルがその要約になっています)がはじまる前に、「南無阿弥陀仏、往生の業には念仏を本(先)とす」という文がおかれています。そして最後の第16章「釈迦如来、弥陀の名号をもつて慇懃(おんごん)に舎利弗等に付属したまふの文」のなかに、「それすみやかに生死をはなれんとおもはば云々」の文があります。この最初と最後の二文で『選択本願念仏集』がみごとに集約されています。
 この書物は、タイトルに「選択」とある如く、往生の行として他のあらゆる行を選びすて、ただ念仏だけを選びとることを明らかにするものです。全編を通してそのことが述べられているのですが、それをたったの六行に約めたものが「それすみやかに生死をはなれんとおもはば」の文であることから、これは「略選択」とよばれます。第一に「しばらく聖道門をさしおきて、えらんで浄土門にいれ」、第二が「しばらくもろもろの雑行をなげすてて、えらんで正行に帰すべし」、第三が「なを助業をかたはらにして、えらんで正定をもはらにすべし」と選択が三段階となっていることから「三選の文」ともよばれます。
 それにしてもこの文章は「しばらく、さしおきて」、「えらんで、いれ」、また、「しばらく、なげすてて」、「えらんで、帰すべし」というように、「選びすて、選びとり」が小気味よく繰り返され、選択の容赦なさが鮮やかに印象づけられますが、ここで考えたいと思いますのは、この「選びすて、選びとり」をするのは誰かということです。何を寝ぼけたことを言っているのか、「それすみやかに生死をはなれんとおもはば」念仏ひとつを選びとるべし、と言っているのだから、それをするのは往生を願うわれらに決まっているじゃないか、と切り返されることでしょう。
 たしかにこの文章は源空が往生の業として他を選びすて念仏だけを選びとるようみんなに勧めているのですから、「選びすて、選びとり」をするのは勧める源空であり、そしてまた勧められるわれらです。このように、「選ぶ」のはわれら衆生であるのは明らかであり、そうでないとすればいったい誰が選ぶのかと言わなければなりません。さてしかし「以上、おわり」でいいのでしょうか。

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本文4 [『教行信証』精読2(その65)]

(12)本文4

 さて七高僧の最後、源空(法然)の登場です。『選択本願念仏集』から二つの文が引用されます。

 『選択本願念仏集』(源空の集)にいはく、「南無阿弥陀仏。往生の業には念仏を本とす」と。
 またいはく、「それすみやかに生死を離れんと欲(おも)はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣(さしお)きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行(しょうぞうにぎょう、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養が正行、その他のさまざまな行が雑行)のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛(なげう)ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業(正行のうち、称名が正定業、その他の四つが助業)のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名(みな)を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と。以上

 (現代語訳) 源空聖人の『選択本願念仏集』の冒頭にこうあります、「南無阿弥陀仏。往生の業としては念仏が本である」と。
 またその末尾にこうあります、「すみやかに生死の迷いからはなれようと思うならば、二種類の法門のなかで、聖道門をさしおき、選んで浄土門に入るべきです。そして浄土門に入ろうと思うならば、正行と雑行の二行のなかで、さまざまな雑行をなげうち、選んで正行を行うべきです。さらに正行を行おうと思うならば、正定業と助業の二業のなかで、助業はかたわらにおいて、選んで正定業をもっぱら行うべきです。正定業とは、すなわち弥陀の名号を称えることです。名号を称えれば、かならず往生することができます。それが弥陀仏の本願ですから。

 『選択本願念仏集』からは冒頭の一文と末尾の短文だけで(『教行信証』全体としてもそれだけです)、親鸞にとってかけがえのない「よきひと」、念仏の道へと導いてくれた大恩人の書物から引くにしては素っ気ない感じがします。しかしこの二文を読みますと、もうこれだけで十分と思えるずっしりとした重みがあります。『選択集』のすべてが、そして法然浄土教のすべてがこのなかにおさまっています。

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念仏の不思議な力 [『教行信証』精読2(その64)]

(11)念仏の不思議な力

 親鸞は『往生要集』の中から、念仏の不思議な功徳を巧みな譬えで表現しているところをピックアップしています。南無阿弥陀仏と称えるだけで世界が一変してしまうということを言おうとしますと、譬えに頼らざるをえないのです。「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であることの不思議さは譬えとして言う以外に表現しようがないということです。
 さて、ここに上げられている譬えから考えたいのは、不思議な力を発揮するそのもとは何かということです。
 波利質多樹の華が衣を芳しい香りに染めあげるのは、その華の香気を衣にうつすからです。その意味では波利質多樹の華の香りを衣に薫じることが素晴らしい結果をもたらすと言うことができます。しかし、衣を芳しい香りに染めあげることができるのは、言うまでもなく、そもそも波利質多樹の華に芳しい香りがあるからです。あるいは、わずかの石汁が大量の銅を金に変えることができるのは、銅を石汁の中に浸すからに違いありませんが、しかし銅が金に変わるのは、石汁そのものにそのような力があるということです。それ以外の譬えでも同じです。
 何を言いたいか、もうお分かりでしょう。「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」となるのは南無阿弥陀仏を称える(念仏する)からに違いありません。しかし、南無阿弥陀仏と称える(念仏する)ことでそのような不思議な結果が生まれるのは、南無弥陀仏そのものにそのような力がそなわっているからです。南無阿弥陀仏とは言ってみれば、宇宙からやってくるかすかな暗号ですが、それにはこころも及ばない不思議な力がそなわっていて、それを傍受し、それにこだますることで世界が一変するのです。ただしかし、傍受し、それにこだますることができませんと、世界に何の変化も起こりません。
 ヒマラヤに生える忍辱という草は、牛乳をたちまちに醍醐に変えるという不可思議な力がありますが、でも牛がその草を食べませんと、何ごとも起こりません。

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本文3 [『教行信証』精読2(その63)]

(10)本文3

 つづいて『往生要集』から短い文が二つ引用されます。ひとつは先と同じく大門第四、正修念仏から、もうひとつは大門第十、問答料簡(もんどうりょうけん)からです。

 またいはく、「波利質多樹(はりしったじゅ、忉利天にあるという香木)の華、一日衣に薫ずるに、瞻匐華(せんぷくげ、香木)、波師迦華(はしかか、強い香気をもつ木)千歳薫ずといへども、及ぶことあたはざるところなり」と。以上
 またいはく、「一斤(いっこん)の石汁(錬金術に用いる薬)よく千斤の銅(あかがね)を変じて金(こがね)となす。雪山(せっせん、ヒマラヤ)に草あり、名づけて忍辱(にんにく)とす。牛もし食(じき)すればすなはち醍醐(牛乳を精製してえられるもっとも美味なるもの)を得。尸利沙(しりしゃ、ねむの木のこと)、昴星(ぼうせい、すばる)を見ればすなはち菓実を出すがごとし」と。以上

 (現代語訳) またこうあります、波利質多樹の華を一日ころもに薫じますと、瞻匐華や波師迦華を千年薫じてもそれに及ぶことはありません。
 またこうもあります、一斤の石汁は千斤の銅を金に変えることができます。またヒマラヤにある忍辱という草は、牛がそれを食べますとたちまち醍醐を出します。また尸利沙は、すばるを見れば菓実をつけますが、念仏の功徳もそのようなものです。

 いずれの文も念仏がもたらす不思議な力をさまざまな譬えで表現しています。

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「礼拝する」と「礼拝される」 [『教行信証』精読2(その62)]

(9)「礼拝する」と「礼拝される」

 しかし「礼拝する」ことがそのまま「礼拝される」ことというのは了解しにくいかもしれません。礼拝ということばには上下関係が含意されていて、われらが仏から「礼拝される」という言い回しはしっくりこないからです。しかし五念門の三つ目、「作願」で考えますと、おのずから了解できるのではないでしょうか。すなわち、われらが往生を「願う」ということが、取りも直さずわれらの往生が「願われている」ことであるということです。こう言う方が分かりやすいかもしれません、われらが往生を「願う」とき、われらの往生が「願われている」ことに気づく、と。「願われている」から「願う」ことができるのです。
 「願う」がそのまま「願われている」であるということは、他ならぬ第18願にはっきり示されています。「若不生者、不取正覚(もし生まれずば、正覚をとらじ)」とは、衆生が往生できてはじめて法蔵の正覚があるということですから、われらの往生は、われらが「願う」より前に法蔵から「願われている」わけです。われらが「願う」ことと、われらが「願われる」ことはひとつであり、それは、われらが往生を「願う」とき、われらの往生が「願われている」ことに気づくということであるとともに、われらの往生が「願われている」ことに気づいて、はじめてわれらは往生を「願う」ということです。
 話を礼拝に戻します。
 親鸞真筆の六字名号が残っていますが、掛け軸に大きく雄渾な字で南無阿弥陀仏と書かれ、上下の余白に経文が記されています(西本願寺蔵の国宝)。当時はおそらく各地の道場にこのような掛け軸が掲げられ、念仏衆の礼拝の対象になっていたのだと思われます。後に蓮如が「木像より絵像、絵像より名号」ということばを残しますが、名号を本尊とする伝統が連綿と続いていたのでしょう。このように南無阿弥陀仏を本尊として礼拝するというかたちには、「礼拝する」われらと「礼拝される」阿弥陀仏との二元的構図を避けようとする姿勢が感じられます。
 名号を本尊とすることは、「礼拝する」こと(南無)と「礼拝される」阿弥陀仏がその中に一体化された「南無阿弥陀仏」ということばを礼拝することになり、われらと阿弥陀仏が二元化されにくい構造になっているのです。

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礼拝ということ [『教行信証』精読2(その61)]

(8)礼拝ということ

 大門第四「正修念仏」では、天親『浄土論』の五念門、すなわち礼拝・讃嘆・作願・観察・回向のそれぞれについて、その具体的な方法が述べられます。源信にとって「正しく念仏を修める」とは、ただ口に南無阿弥陀仏を称えるだけではなく、この五つの行を修めることだということです。そこで、はじめに礼拝について説かれるのですが、それがここで引用されている文です。
 さてここで考えたいのは、礼拝するといいますと、どうしても礼拝するものと礼拝されるものとが分離するということです。われらが阿弥陀仏を礼拝するのですから、こちらにわれらがいて、あちらに礼拝される阿弥陀仏がいるという構図になります。具体的には、本堂に安置された本尊(それは阿弥陀仏の木像や絵像である場合も、名号である場合もありますが)に向かってわれらが礼拝をします。
 しかしわれらと阿弥陀仏の関係は本来そのように二元的に分離されているものではありません。もしこちらにわれらがいて、あちらの阿弥陀仏に礼拝するとしますと、これは能動と受動の関係となります。しかしわれらと阿弥陀仏とはそのような関係にあるのではなく、能動がそのまま受動であるという関係です。われらが「する」には違いありませんが、それが同時に「される」であるという中動の関係です。
 妙好人(誰だったか忘れてしまいました)が本堂でゴロンと寝そべっているのを同行が見咎めたところ、「ワシは親元に帰ってきて寛いでいるのだよ」と答えたという話があります。その妙好人にとって、こちらに自分がいて、あちらに阿弥陀仏がいるのではなく、阿弥陀仏という親の懐の中でゆったりと寛いでいるということです。阿弥陀仏という大きな船の上で安心しているということです。
 これは「礼拝する」こと(能動)がそのまま「礼拝される」こと(受動)になっているということに他なりません。

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本文2 [『教行信証』精読2(その60)]

(7)本文2

 今度は『往生要集』の大門第四、正修念仏から礼拝についての文です。

 またいはく、「『心地観経』の六種の功徳によるべし。一つには無上大功徳田、二つには無上大恩徳、三つには無足・二足および多足衆生のなかの尊なり。四つにきはめて値遇(ちぐう)しがたきこと、優曇華(うどんげ)のごとし。五つにはひとり三千大千世界に出でたまふ。六つには世・出世間の功徳円満せり。義つぶさにかくのごときらの六種の功徳による。つねによく一切衆生を利益したまふ」と。以上 この六種の功徳によりて信和尚(源信)のいはく、「一つには念ずべし、一念南無仏皆已成仏道(ひとたび南無仏と称するに、みなすでに仏道を成ぜり)のゆゑに、われ無上功徳田を帰命し礼したてまつる。二つには念ずべし、慈眼をもつて衆生を視そなはすこと、平等にして一子のごとし。ゆゑにわれ極大慈悲母を帰命し礼したてまつる。三つには念ずべし、十方の諸大士、弥陀尊を恭敬したてまつるがゆゑに、われ無上両足尊を帰命し礼したてまつる。四つには念ずべし、一たび仏名を聞くことを得ること、優曇華よりもすぎたり。ゆゑにわれ極難値遇者を帰命し礼したてまつる。五つには念ずべし、一百倶テイ界(三千大千世界と同じ)には二尊並んで出でたまはず。ゆゑにわれ希有大法王を帰命し礼したてまつる。六つには念ずべし、仏法衆徳海は三世同じく一体なり。ゆゑにわれ円融万徳尊を帰命し礼したてまつる」と。以上

 (現代語訳) また『往生要集』大門第四にこうあります。『心地観経』の如来の六種の功徳によりますと、一つに如来はこの上ない大功徳田であり、二には如来はこの上ない恩徳田であり、三には無足・二足・多足の一切衆生の中の最も尊いお方であり、四にはお遇いし難いこと優曇華のようなお方であり、五には三千大千世界の中で唯一独尊の方であり、六には世間と出世間の功徳を完全にそなえておられますから、このような六つの功徳によってつねに一切衆生を利益されるのです。(略)この六つの功徳によって、源信和尚はこう言われます。一つにはこう念じましょう、ひとたび南無仏と称することで、みな悟りをひらく身となることができるのですから、わたしはこの上ない功徳田である弥陀に帰命し礼拝します。二つにはこう念じましょう、慈悲の眼で衆生をひとり子のようにみそなわしますから、わたしはこの上ない慈悲の母である弥陀を帰命し礼拝します。三つにはこう念じましょう、世界中の菩薩方も弥陀仏を恭敬されますから、わたしもこの上なく尊い弥陀仏を帰命し礼拝します。四つにはこう念じましょう、ひとたび弥陀の名号を聞くことは優曇華が咲くよりも稀なことですから、わたしはこのお遇いしがたい仏を礼拝します。五つにはこう念じましょう、三千大千世界に二仏がおわしますことはありませんから、たぐいまれなる弥陀仏に帰命し礼拝します。六つにはこう念じましょう、仏法僧の三宝は過去・現在・未来を通じて同一ですから、わたしは三宝の徳をまどかに備えられた弥陀仏に帰命し礼拝します、と。

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