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善人なをもて [『教行信証』精読2(その73)]

(4)善人なをもて

 「どんな」という語のつかいかたを考えてみますと、それが「悪人も」という否定的な主語につくときは、「救われる」という肯定的な述語が接続します。反対に、「どんな悪人も」という主語に「救われない」という否定的な述語が接続しますと不自然になります。ところが「どんな聖人も」という肯定的な主語の場合は、たとえば「堕落する」というような否定的な述語を伴うものであり、「どんな聖人も」という主語が「救われる」という肯定的な述語に接続しますと不自然に感じられます。
 どんな聖人も、どんな悪人も、念仏によってだけ救われる、別の道はない、という言い回しに「うん?」となるのは、悪人が念仏によってだけ救われるのはそうかもしれないが、聖人がどうして、と感じるからです。聖人なら念仏でなくても救われて当然ではないかと思うのです。現にこれまでずっと、聖人なら聖道門で救われるだろうが、罪業深重の凡夫は浄土門でしか救われないと言われてきたのではないでしょうか。ところが、どんな聖人も浄土門ではじめて救われると言われるものですから、「うん?」となるのです。
 ここには聖人(善人)と悪人の価値の転倒があります。これまでは「どんな悪人でも救われる」とされてきたのが、「どんな善人でも救われる」となったのです。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(『歎異抄』第3章)です。さてしかしこの破天荒な言い回しに素直に頷くためには、ここで善人・悪人ということばが何を意味しているかを了解する必要があります。ぼくらは普通、善人というのはこういう人で、悪人はこんなヤツというイメージをもっています。それを厳密に規定するのは難しくても、誰にも当てはまる善悪の基準があると思っています。
 しかし、この「善人なをもて云々」ということばで親鸞が言っているのはそのような客観的な善人・悪人のことではありません。善悪の客観的基準があることを否定するわけではありませんが、それを本願名号の立場から換骨奪胎して、善人とは「己が悪人であることに気づいていない悪人」であり、悪人とは「己が悪人であることに気づいている悪人」であると理解するのです。

タグ:親鸞を読む
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