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即ちのとき [『教行信証』精読2(その78)]

(9)即ちのとき

 龍樹は「即時入必定」と言っていましたが、この「即ちのとき」について思いを廻らせてみましょう。
 本願名号の行信をえることで正定聚不退の位につくことができると言われます。宇宙のかなたからやってくるかすかな信号を傍受することにより正定聚不退となるということですが、この「行信をえることで正定聚不退の位につく」という言い方には注意が必要です。これを普通の原因と結果の関係ととらえてしまいますと、そこに時間の流れがはさまります。たとえそれがどれほど短い時間であっても、原因としての行信と結果としての正定聚とは時間的に隔てられます。
 しかし行信をえることと正定聚不退となることの間には時間の流れはありません。その意味では、行信をえることにより正定聚不退となるのではなく、行信をえることが取りも直さず正定聚不退となることです。「即ちのとき」とは言うものの、両者は時間的な関係ではないということです。原因と結果の概念は何かが実際に変化するときにつかわれます。しかし行信をえて正定聚となると言っても、何かが実際に変化するわけではありません。これまで正定聚でなかったものが、あらたに正定聚となるのでしたら、実際の変化でしょうが、すでに正定聚であることに「気づく」だけで、そこに何の変化もありません。
 行信は本願名号に何ひとつつけ加えるわけではありません、ただ本願名号に気づくだけです。それは「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままですでに「ほとけのいのち」であることに気づくことでした。摂取不捨とはそういうことです。そしてそれをさらに言い換えれば、もうすでに正定聚不退であることに気づくことでもあるのです。「かならず仏となる身」であると気づき、もう「仏とひとし」と気づくことです。このように考えてきますと、行信をえることは、正定聚不退となることと別ではありません。行信をえることが、取りも直さず正定聚不退となることです。

タグ:親鸞を読む
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