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観経的往生観と大経的往生観 [『教行信証』精読2(その99)]

(12)観経的往生観と大経的往生観

 観経の説き方をもとにして、臨終の来迎そして来生の往生を前提に大経の第18願や第11願を読みますと、正定聚となり滅度にいたるのはみな来生のことになります。これが道綽以後の浄土教の伝統的な考え方となります。しかし曇鸞は大経の所説をもとにしますから、十念念仏のときが往生のときであり、それは正定聚となることに他なりませんから、往生すなわち正定聚は今生ただいまのことです。そして正定聚とは「かならず滅度にいたる」ことですから、滅度は将来すなわち来生のこととなります。
 さて浄土真宗ではどうかと言いますと、親鸞の教えの最大の特徴は現生正定聚にあるとされます。すなわち本願の信心をえたそのときに正定聚となるとし、これまでは往生したのちのこととされていた正定聚を今生ただいまのことだとするのです。
 第11願成就文の「生彼国者、皆悉住於正定之聚」は、親鸞までは「かの国に生まるれば、みなことごとく正定の聚に住す」と読まれてきたのですが、親鸞はそれをあえて「かの国に生まるる者は、みなことごとく正定の聚に住す」と読み、そこに親鸞の尋常ならざる理解が示されています。「生まるれば」では「かの国に生まれてのちに正定聚になる」ということですが、「生まるる者は」となりますと、「かの国に生まれることになっている者はすでに正定聚」であり、信心のときに正定聚となることになります。
 このように信心・念仏のときに正定聚となるという点で曇鸞の解釈と共通するのですが、往生はと言いますと来生のこととするのが大勢を占め、これについては観経的往生観が優勢であると言わざるをえません。現生で正定聚となるが往生は来生。こうなりますと正定聚の意味が「かならず滅度にいたる」ということから「かならず往生をえる」へとシフトすることになります。こうして信心・念仏のときに「かならず往生をえる」ことが約束された正定聚となるというのが真宗の解釈と言えます。
 さてしかし親鸞自身はどうみていたのでしょう。

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三願的証 [『教行信証』精読2(その98)]

(11)三願的証

 ここは三願的証(的とは「あきらかに」ということ)とよばれる段です。曇鸞は四十八願の中から第18願と第11願と第22願(これは次の本文6)の三つを取り上げ、往相も還相も(自利も利他も)みな本願力によることを示そうとしているのです。第18願と第11願が往相の願、そして第22願が還相の願ですが、まずは「かの浄土に生ずる」往相についてみてみましょう。曇鸞によりますと、第18願によるがゆえに「十念念仏してすなはち往生をう」ることができ、そして往生をえるということは「すなはち三界輪転の事をまぬかる」ということだから、速やかに菩提にいたることができるのです。そして次に、第11願によるがゆえに往生浄土したものは「正定聚に住」し、「かならず滅度にいたる」のであり、かくして速やかに菩提をえることができるというのです。
 この説き方から見えてくることがあります。まず、信心・念仏すれば(『浄土論』的に言いますと、五念門を修めれば)、「すなはち」往生することができ(同じく、五功徳門を成就することができ)、それは正定聚となることに他ならないということ。そして、正定聚となるということは、かならず滅度にいたることであるということ。ここから往生することと正定聚となることは同義であり、そしてそれはかならず滅度(これは菩提でもあり、悟りをひらくことでもあり、成仏することでもあります)を伴うことが分かります。さて「十念念仏してすなはち往生をう」という文言の「すなはち」ですが、滅度に「かならず」がついていることからしましても、十念念仏のときが往生のときであり、そしてのちに(いのち終わってから)滅度にいたるというように読むのが自然です。
 これはしかし浄土教におけるオーソドックスな理解とはかなりの隔たりがあると言わなければなりません。伝統的な浄土教において、往生はあくまで来生のことであり、したがって正定聚となるのも滅度をえるのも来生であるとされてきました。これは観経をベースとした往生観であり、道綽から善導へ、そしてわが日本の源信、さらに源空へと受け継がれてきたものです。しかし曇鸞は大経の第18願と第11願をベースとすることにより、往生は十念念仏のときであり、それは正定聚となることに他ならず、いつかかならず滅度にいたると理解したのです。
 親鸞はこの曇鸞の大経的往生観を受け継いでいると思われます。

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本文5 [『教行信証』精読2(その97)]

(10)本文5

 本文4の最後に「もし仏力にあらずは四十八願すなはちこれいたづらにまうけたまへらん」とあったのを受けて、次のようにつづきます。

 いま的(ひと)しく三願(第18願、第11願、第22願の三願)を取りて、もつて義の意を証せん。願(第18願)にのたまはく、たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生ぜんと欲(おも)うて、乃至十念せん。もし生れずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除くと。仏願力によるがゆゑに十念念仏してすなはち往生を得。往生を得るがゆゑに、すなはち三界輪転の事を勉(まぬか)る。輪転なきがゆゑに、このゆゑに速やかなることを得る一つの証なり。願(第11願)にのたまはく、たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじと。仏願力によるがゆゑに正定聚に住せん。正定聚に住せるがゆゑにかならず滅度に至らん。もろもろの回伏(えぶく、伏は復の意味で、輪廻を繰り返すこと)の難なし。このゆゑに速やかなることを得る二つの証なり。

 (現代語訳) 四十八願から三願を取り上げ、速やかに菩提にいたることができるのは本願の力によることを明らかにしたいと思います。まず第18願にこうあります。もし仏となることができましたら、あらゆる衆生がこころから信楽しわが浄土へ往生したいとおもって十回でも念仏するようにして、かならず往生させましょう。そうでなければ正覚をとりません。ただ五逆と正法を誹謗するものは除きますと。ここにありますように、弥陀の願力によるからこそ、十回念仏してその場で往生でき、往生しますからその場で輪廻転生をまぬかれるのです。これが速やかに菩提を得ることができる一つの証拠です。次に第11願にこうあります。もし仏となることができましたら、往生したものはみな正定聚となり、かならず悟りに至ることができるようにしましょう。そうでなければ正覚をとりませんと。このように弥陀の願力によるからこそ、正定聚となるのであり、正定聚となりますからかならず悟りに至り、もう生死輪廻に戻ることはありません。これが本願の力で速やかに菩提にいたることができる二つ目の証拠です。

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他利と利他 [『教行信証』精読2(その96)]

(9)他利と利他

 この段の途中に突然「他利と利他と談ずるに左右あり」と出てきて、いかにも唐突という感をまぬかれません。もちろん、すぐ前のところに「五門の行を修して、もて自利利他成就したまへるがゆへに」という『浄土論』のことばがあるからであるのはその通りですが、それにしてもなぜこういう流れになるのでしょうか。曇鸞のこころの内を忖度してみますと、このことばにある「自利利他」とはわれらの行であり、われらが自らの救いと他者の救いをめざしてなすところの行ということですが、それらのすべてが「その本を求むれば」如来の本願力のしからしめるところであると言おうとしますと、われらの利他と如来の利他の違いを明らかにしなければなりません。そこで突然この「他利と利他と談ずるに左右あり」が出てきたと思われます。
 われらの利他も如来の利他も他者の救いをめざすという点では共通していますが、ちょうど右手と左手のようにそっくりだけれども置き換えることはできません。これは手袋で考えるとよく分かりますように、右の手袋と左の手袋は見分けがつかないほどそっくりですが、右の手袋を左手にはめることはできません。やはりまったく異なるのです。で、われらと如来の利他はどう違うかといいますと、われらの利他は、他者の救いをめざしているには違いありませんが、「その本を求むれば」如来の本願力回向のなせるわざであり、その意味で利他というよりも他利と言わなければなりません。われらが「他を利する」のではなく、如来という「他が利する」のであって、他である如来が衆生利益のはたらきをしているのです。ただそれがわれらの身体を通してなされているということです。
 正真正銘の利他はただ如来の利他のみであり、それが他力ということです。親鸞はこの段の冒頭に「他力といふは、如来の本願力なり」と述べていましたが、ここにきまして他力というのは、如来の利他の力であることが明らかになりました。「他を利する力」が他力であるということです。

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その本を求むれば [『教行信証』精読2(その95)]

(8)その本を求むれば

 この箇所が『論註』の最大のハイライトと言っていいでしょう。古来ここは「覈求其本釈(かくぐごほんしゃく)」とよばれ大事にされてきました。「覈求其本」とは「覈(まこと)にその本を求むれば」ということです。
 『浄土論』を素直に読みますと、行者が五念門の自利利他行を修めることにより、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得ることができるというように理解できますし、曇鸞も基本的にはその線にそって注釈をすすめていくのですが、最後の最後になってどんでん返しが待っているのです。行者が自利利他の修行をすることが因となり、阿耨多羅三藐三菩提という果を得ることができるのはその通りなのですが、「その本を求むれば」もうひとつの因が隠されていて、それが如来の本願力であるというのです。如来の本願力のはたらきがあるからこそ、五念門の行を修めることができ、五功徳門をえることができるのだと。
 この視点に立って、もういちど『浄土論』を読み返しますと、その最初のページからこれまでとはまったく異なる様相を見せるようになります。「帰命尽十方無碍光如来」の「帰命」(これが曇鸞に言わせれば礼拝門ですが)は、これまでわれらが如来をこころから礼拝することでしたが、いまや、われらが礼拝するには違いないが、「その本を求むれば」如来の本願力によってそうせしめられているということになります。また「尽十方無碍光如来」(これが讃嘆門です)はこれまでは、われらが弥陀を讃嘆することでしたが、いまや、われらが讃嘆するには違いなくとも、「その本を求むれば」やはり如来からそうせしめられているのです。
 「生死すなはちこれ涅槃なり」に戻りますと、阿耨多羅三藐三菩提とは無碍道であり、無碍道とは「生死すなはちこれ涅槃なり」と証知することでした。ですから速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得るということは、たちまちに「生死すなはちこれ涅槃なり」と証知するということですが、どうしてそんなことが可能かと言えば、そこに如来の本願力がはたらいているからということになります。如来の本願力で「生死すなはちこれ涅槃なり」と証知することができるのだと。これまではみずからの力で「生死すなはち涅槃なり」と証知しようと努力してきたのですが(これが聖道門です)、いまや、如来の本願力によりそのように証知せしめられることが明らかになったのです(これが浄土門です)。

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本文4 [『教行信証』精読2(その94)]

(7)本文4

 そんな親鸞には聖道門を誹謗中傷するようなところは微塵も見られず、むしろ曇鸞の聖道門的な言い回しを好んで取り上げているような気配すらあります。正信偈において曇鸞を讃えるのに、限られた枠のなかで「惑染凡夫信心発、証知生死即涅槃(惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ)」と詠っていることにもそれはあらわれていると思います。
 さてしかしそれでは浄土門の意義はどこにあるのでしょう。もうすでに聖道門において生死即涅槃という仏法の真髄とも言うべき真理が説かれているならば、本願名号の教えにどんな意味があるのでしょう。その問いに答えるのが次の文です。

 問うていはく、なんの因縁ありてか速得成就阿耨多羅三藐三菩提といへるやと。答へていはく、『論』に五門の行を修して、もつて自利利他成就したまへるがゆゑにといへり。しかるに覈(まこと)にその本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。他利と利他と談ずるに左右(さう、右と左の違い)あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ。まさに知るべし、この意(こころ)なり。おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の起すところの諸行は、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑに。なにをもつてこれをいはば、もし仏力にあらずは、四十八願すなはちこれいたづらに設けたまへらん。

 (現代語訳) さて、どういうわけで速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得ると言われるのでしょうか。浄土論には、五念門の行を修め、自利と利他を成就されたからであると説かれていますが、その根本を求めますと、阿弥陀如来のはたらきを優れた縁としているからです。他利と利他には右手と左手のような違いがあります。仏からしますと利他と言わなければなりませんが、われら衆生からしますと他利をいうことになります。いまはまさに仏の力を問題としているのですから、利他と言わなければなりません。この違いをしっかり押さえておかなければなりません。われらが浄土へ往生することができるのも(往相です)、その上でさまざまなはたらきをすることができるのも(還相です)、みな阿弥陀如来の本願力(利他の力)によるのです。どうしてそう言えるかといいますと、もし仏の本願力によるのでなければ、四十八願が設けられたのは無意味であることになるからです。

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無碍の道 [『教行信証』精読2(その93)]

(6)無碍の道

 ここで曇鸞は、『浄土論』に「菩薩は五念門を歩むことにより速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得る」と述べられていることについて、まず阿耨多羅三藐三菩提の意味を解説しています。阿耨多羅三藐三菩提はサンスクリットの音訳ですから、それぞれの文字に意味があるわけではなく、意訳としては「無上正等覚」とか「無上正真道」と訳され、要するに仏の無上の悟りのことです。それを曇鸞は「無上正徧道」として、それを「無上」と「正」と「徧」と「道」に分解し、それぞれの意味するところを明らかにしているのです。あまりに抽象的で理解するのに苦労しますが(現代語訳するのに四苦八苦します)、印象に残るのは無碍道ということばです。「道は無碍道なり」という表現から自然と頭に浮かんでくるのが『歎異抄』第7章の「念仏は(念仏者はとなっていますが、この者は『は』でしょう)無碍の一道なり」です。
 曇鸞はこの無碍道について「無碍はいはく、生死すなはちこれ涅槃なりとしるなり」と述べています。ここに龍樹の学徒たる曇鸞らしさが出ていると言うべきでしょう。
 ちょっと話が横道にそれるかもしれませんが、浄土教において聖道門と浄土門が区別されるのは当然としても、それがしばしば対立させられ、聖道門は何か不倶戴天の敵であるかのように言われることがあります。それはたとえば、いま出てきました「生死即涅槃」などということばに対する忌避の感覚にあらわれています。それは聖道門の言葉であって、われら浄土門に生きるものには縁のないものだとはねつけられることがよくあるのです。これはしかし悲しむべきセクト主義ではないでしょうか。聖道門であれ浄土門であれ、同じ仏門であるはずです。ひとつの仏門があるとき小乗と大乗に分かれ、さらに大乗が聖道と浄土に分かれるにはそれぞれの必然性があってのことであるのは言うまでもありませんが、その必然性を理解することは、もとは同じであるという認識を生みこそすれ、敵対することにはならないはずです。
 考えてみますと、これまで出てきました七高僧はみな聖道門から浄土門へと転入してきた人たちです。龍樹は中観から浄土へ、そして天親は唯識から浄土へ転入し、曇鸞・道綽・善導・源信・源空もみな聖道を学ぶなかから浄土の教えに帰入してきました。親鸞もまた例外ではありません。叡山の天台教学から源空の浄土教へと飛び込んでいったのです。

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本文3 [『教行信証』精読2(その92)]

(5)本文3

 さらに『論註』からの引用がつづきます。

 菩薩はかくのごとき五門の行を修して、自利利他して、速やかに阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏の悟り)を成就することを得たまへるがゆゑにと。仏の所得の法を、名づけて阿耨多羅三藐三菩提とす。この菩提を得たまへるをもつてのゆゑに、名づけて仏とす。いま速得阿耨多羅三藐三菩提といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。阿をば無に名づく、耨多羅をば上に名づく、三藐をば正に名づく、三をば遍に名づく、菩提をば道に名づく。統(か)ねてこれを訳して、名づけて無上正遍道とす。無上は、いふこころは、この道、理を窮(きわ)め、性(しょう)を尽くすこと、さらに過ぎたるひとなけん。なにをもつてかこれをいはば、正(しょう)をもつてのゆゑに。正は聖智なり。法相のごとくして知るがゆゑに、称して正智とす。法性は相なきゆゑに聖智は無知なり。遍に二種あり。一つには聖心(しょうしん)、あまねく一切の法を知ろしめす。二つには法身、あまねく法界に満てり。もしは身、もしは心、遍せざることなきなり。道は無碍道なり。『経』(華厳経)にいはく、十方の無碍人、一道より生死を出でたまへりと。一道は一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。かくのごときらの入不二の法門(諸法不二をさとる法門)は無碍の相なり。

 (現代語訳) 菩薩はこのように五念門を修め、自利と利他のはたらきを成就して速やかに阿耨多羅三藐三菩提に至ることができます。仏の得る悟りを阿耨多羅三藐三菩提と言います。この菩提をえられますから仏と言うのです。いま速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得ると言われますのは、はやく仏になることができるということです。阿耨多羅三藐三菩提の阿は無であり、耨多羅は上、三藐は正、三は徧で、菩提は道ですから、あわせて無上正徧道となります。「無上」といいますのは、ものごとのことわりと本質を極めつくしていて、これ以上のものはないからです。と言いますのも、それは「正」であるからで、正とは仏の悟りの智慧を言い、ものごとのありのままを悟りますから、これを正智といいます。ものごとのありのままはこれといって定まった相はありませんから、悟りの智慧はこれといって何を知るでもなく、したがって無知と言うこともできます。「徧」には二つの意味があり、一つは、仏の心はあまねく一切のことを知るということで、もう一つは、仏の身はいたるところに満ち満ちているということです。仏の身も心もいたらないところはありません。「道」とは何ものにも妨げられることのない無碍道のことです。『華厳経』に「無碍の人である仏はみなひとつの道から生死の迷いを出られた」とありますが、このひとつの道が無碍道です。無碍とは、生死はそのままで涅槃であると悟ることであり、このように何ものにも囚われることのない境地に入るのが無碍の相です。

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自利と利他 [『教行信証』精読2(その91)]

(4)自利と利他

 まず「自利にあたはずしてよく利他するにはあらざるなり」ということですが、これを自分が救われてはじめて他者(ひと)を救うことができると理解すべきではないでしょう。そうしますと、自分の救いと他者の救いとの間に時間的なズレが生まれることになり、自分が救われるまでは他者のために何もできないとなってしまいます。そうではなく、自分の救いを求めないと他者の救いを求めることもないというように受けとめるべきです。自分の救いを求めてはじめてほんとうに他者の救いを求めるようになるということです。
 自分の救いをさしおいて、もっぱら他者の救いを求めることもあるじゃないかと言われるかもしれませんが、そのときイメージされているのは、たとえば、わが身を顧みずに火の中に飛び込んでわが子を助けようとする親の姿でしょう。そのような自己犠牲が事実としてあることは確かですが、それはしかし「わが身」を犠牲にして「わが子の身」を助けようとしているのであって、「わが魂」と「わが子の魂」の救いのことではありません。魂の救いについていえば、「わが魂」の救いを求めないと「わが子の魂」の救いを求めることもないと言わなければなりません。
 次に「利他にあたはずしてよく自利するにはあらず」について。これも同様に、他者の救いを求めないと自分の救いを求めることもないと受けとめるべきです。「利他によるがゆへにすなはちよく自利す」であり、他者の救いを求めてはじめてほんとうに自分の救いを求めることになるのです。これにも疑問が呈されるかもしれません、他者の救いなんてそっちのけで自分の救いだけ求めることもあるじゃないか、と。確かに深い悩みに閉ざされたようなとき、もう周りは見えなくなり、ただひたすら自分の救いだけを求めるかもしれません。でも、その救いがまがいものでないとすれば、自分だけの救いなどありえないことはそのうち気づきます。すぐ隣にいる人が救われていないのに、自分は救われているなどということがどうしてあるでしょう。
 かくして自利があってはじめて利他があり、また利他があってはじめて自利があると言わなければなりません。

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本文2 [『教行信証』精読2(その90)]

(3)本文2

 『論註』からの引用がつづきます。

 菩薩は四種の門(五念門のうちの前の四。礼拝・讃嘆・作願・観察)に入りて、自利の行成就したまへりと、知るべしと。成就とは、いはく自利満足せるなり。応知といふは、いはく自利によるがゆゑにすなはちよく利他す。これ自利にあたはずしてよく利他するにはあらざるなりと知るべし。菩薩は第五門(五念門の最後の回向門)に出でて回向利益他の行成就したまへりと知るべしと。成就とは、いはく回向の因をもつて教化地の果を証す。もしは因、もしは果、一事として利他にあたはざることあることなきなり。応知といふは、いはく利他によるがゆゑにすなはちよく自利す、これ利他にあたはずしてよく自利するにはあらずと知るべし。

 (現代語訳) 『浄土論』に「菩薩は礼拝・讃嘆・作願・観察の四つの門に入り、自利の行を成就したまうのだと知るべきです」とありますが、この「成就」とは、自利を満足するということです。また「知るべし」とありますのは、自利を満足するがゆえによく利他をなしうるということです。自利を満足することができなくて、利他をなすことはできないと知るべきであるというのです。また「菩薩は回向の第五門に出て、衆生利益の行を成就したまうのだと知るべきです」とありますが、この「成就」とは、回向の因(五念門の第五)も教化地の果(五功徳門の第五)も、みな利他でないことはありませんということです。「知るべし」とは、利他をはたらくからこそ自利のはたらきとなるのであり、利他のはたらきができなくては自利にもならないと知るべきであるというのです。

 ここで前四門と最後の一門が自利と利他の関係として、互いに他をまって成り立つ所以が述べられます。

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