SSブログ

無明覆へるをもつてのゆゑに [『教行信証』精読2(その114)]

(7)無明覆へるをもつてのゆゑに

 少し前にこう言いました、大悲の願船は、われらがこれから乗り込まなければならないのではなく、もうすでにそのなかに乗っているのだと。ただ、これまでそのことにちっとも気づかなかっただけのことなのだと。それをこう言うこともできます、仏性はこれから手に入れなければならないのではなく、もうすでにわれらのなかに具わっているのだと。ただ、そのことにちっとも気づかなかっただけです。願船も仏性も「ほとけのいのち」のことで、願船は「ほとけのいのち」を外なるものとイメージし、仏性はそれを内なるものとイメージしていますが、いずれにしても「ほとけのいのち」はもうすでに「わたしのいのち」のもとに届いているのです(「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」のもとに届いていることに気づいたとき、そのふたつはふたつにしてひとつですから、外でもあり内でもあることになります)。
 ただ、そのことにちっとも気づかなかった。それが「無明覆へるをもつてのゆゑに、見ることを得ることあたはず」ということですが、さてしかしこれはどういうことでしょう。源信はこう言います、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさへてみたてまつらずといへども、大悲ものうきことなくして、つねにわれをてらしたまへり」と。『涅槃経』には「無明覆へるをもつてのゆゑに、見ることを得ることあたはず」とあり、『往生要集』には「煩悩まなこをさへてみたてまつらず」とありますが、同じことを言っています。大悲はわれらを照らしてくださっているのに、それを見ようとしても無明がさえぎって見ることができないということです。「われまたかの摂取のなかにあれども」と言い、「つねにわれをてらしたまへり」と言うのですから、そのことには気づいているはずですが、しかし見ることはできないのです。
 ここに「気づく」と「見る」のコントラストがあります。「気づく」ことはできるが「見る」ことはできないというのはどういうことか、このあたりの消息をあらためて考えてみましょう。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問