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ひとつの船 [『教行信証』精読2(その109)]

(2)ひとつの船

 親鸞が他力につづいて一乗海について説こうとした動機を考えてみますと、直接的には、少し前のところで「大小聖人、重軽悪人、みなおなじくひとしく選択大宝〈海〉に帰して念仏成仏すべし」とあり、また「行の一念」について論じたとき、「(念仏の)大利無上は〈一乗〉真実の利益なり」とあることをうけたものと思われますが、それまでにもさまざまなところで〈一乗〉と〈海〉ということばがキーワードとして使われてきました。そこで、真理はひとつしかなく、それが本願念仏の教えに示されているということ、これをここであらためて確認しておこうというのではないでしょうか。
 一乗はひとつの乗り物ということですが、浄土の教えではひとつの船に譬えられます。あれこれの船があるのではなく、ひとつの船しかないということ、難度海を度する大船は本願念仏の船をおいて他にないということです。さてしかし、たったひとつの船しかないと言われますと、それがどれほど大きな船であるとしても、すべての衆生が乗り込めるものだろうかと心配になるかもしれません。だけどこの心配はこれから船に乗り込むものと思うから起こるのであり、この船はこれから乗り込まなければならないわけではなく、もうすでにみんな乗り込んでいるのです。老いも若きも、愚かなるも賢きも、悪人も聖人も、みんな例外なくとうの昔から乗船しているのです。この船に乗っているがゆえに生きてこられたのです。
 ただそれに気づいているかどうかの違いがあるだけ。それだけの違いですが、この違いが決定的です。
 みんなひとつの願船に乗っていることに気づかないとどうなるかといいますと、老いと若きはいたるところでぶつかり、愚かなると賢きは罵りあい、悪人と聖人はともに天を戴くことができません。ひとつの船に乗っているというのに、互いに角突きあって、ひとつに溶けあうことがありません。さてでは、みんな大悲の願船に乗っていることに気づくとどうなるか。老いと若きの、愚かなると賢きの、悪人と聖人の差がなくなるわけではないのはもちろんですが、でもひとつの船に摂取不捨されていると気づくことで、そうした違いはもういがみ合いの種とはならず、むしろ倶会一処(くえいっしょ、ひとつの処に会うことができる)を喜べるようになります。これが救いであり、これ以外に救いはありません。

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本文1 [『教行信証』精読2(その108)]

            第7回 ただこれ誓願一仏乗なり

(1)本文1

 他力につづいて、今度は一乗海について注釈が施されます。まずは一乗について。

 一乗海といふは、一乗(ただひとつの乗り物)は大乗(小さな乗り物である小乗に対して、大いなる乗り物ということ)なり。大乗は仏乗(声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三乗に対して、ただひとつの仏の教え)なり。一乗をうるは、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏の悟り)をうるなり。阿耨菩提はすなはちこれ涅槃界なり。涅槃界はこれ究竟法身(くきょうほっしん、究極の真如・真理)なり。究竟法身を得るは、すなはち一乗を究竟するなり。異の如来ましまさず。異の法身ましまさず。如来はすなはち法身なり。一乗を究竟するは、すなはちこれ無辺不断(空間的・時間的に限定されない)なり。大乗は二乗・三乗(声聞乗、縁覚乗が二乗、それに菩薩乗を加えて三乗)あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり(それはただ本願の教えひとつです)。

 (現代語訳) 一乗海の一乗とは大乗ということで、そして大乗とは仏乗です。一乗をえるということは仏の悟りをえることで、仏の悟りとは涅槃の世界です。そして涅槃の世界とは究極の真如であり、それをえることは一乗を極めることです。それ以外の如来はなく、それ以外の真如もありません。そして如来とは真如のことです。一乗を極めることには空間的・時間的に限りはありません。そして大乗には二乗も三乗もなく、二乗や三乗は一乗に至らせようとするためのものです。一乗は出世間のこの上ない真理であり、それはただ本願の教えひとつです。

 親鸞はここで、『勝鬘経(しょうまんきょう)』のことばをもとにして、二乗も三乗もなく、ただ本願の一仏乗があるだけであると述べています。要するに釈迦のあらゆる教説は本願念仏の教えにおさまるということで、正信偈に「如来所以興出世、唯説弥陀本願海(如来世に興出したまふ所以は、ただ弥陀本願海を説かんとなり)」とあるごとくです。

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本文8 [『教行信証』精読2(その107)]

(20)本文8

 最後に元照〈がんじょう、宋代の律宗の僧〉の文が引用され、他力についての段が終わります。

 元照律師のいはく、「あるひはこの方にして惑を破し真を証すれば、すなはち自力を運ぶがゆゑに、大小(大乗、小乗)の諸経に談ず。あるひは他方に往きて法を聞き道を悟るは、すべからく他力を慿(たの)むべきがゆゑに、往生浄土を説く。彼此ことなりといへども方便にあらざることなし。自心を悟らしめんとなり」と。以上

 (現代語訳) 元照律師が『観経義疏』においてこう言われています。この世界で迷いを脱し悟りに至ろうとしますと、自力の修行によらねばならず、そのために大乗・小乗の経典が説かれています。しかし他の世界に行って法を聞き悟りをひらこうとしますと、他力をたのまねばならず、そのために往生浄土の教えが説かれます。自力と他力の違いはあっても、悟りをひらくための方便であることでは何も異なるところはありません。

 元照はここで、自力も他力も道が異なるだけであって、いずれも「自心をさとらしめん」としていることにおいて何の違いもないと述べ、大事な観点を示してくれていますが、ただ、「この方にして」は自力、「他方にゆきて」は他力という言い方が気になります。この言い回しに、さらに「今生において」と「来生において」が加わりますと、もう何ともならない二元的世界になってしまいます。こなたには自力の世界、あなたには他力の世界があって、互いにふれあうことなく並び立つ光景。
 そうではないでしょう。一方では「わたしのいのち」を一生懸命に生きていますが、同時に「ほとけのいのち」に生かされています。「わたしのいのち」を生きることは自力で、「ほとけのいのち」に生かされることは他力ですが、これはふたつにしてひとつです。「わたしのいのち」とは別にどこかに「ほとけのいのち」があるのではなく、「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」です。ただ、そのことに気づくかどうか。気づきませんと「ほとけのいのち」なんてどこにもありません。ただこのいのちが愛おしく、少しでも生きながらえようと涙ぐましい努力をするだけです。でもあるときふと、愛おしい「わたしのいのち」を生きながらえようとしているのも、実は「ほとけのいのち」にそうせしめられていることに気づかされるのです。
 自力は自力のままで実は他力です。

                (第6回 完)

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主と従 [『教行信証』精読2(その106)]

(19)主と従

 自力の譬えはよく分かりますが、肝心の他力の譬えはいまひとつピンときません。いちばんの難点は「輪転王の行くにしたがへば」という言い回しで、これではわれらが輪転王の御幸に随うことによって意識的にその力を利用していることになります。この関係はわれらが輪転王に随うのですから、一見したところでは輪転王が主でわれらが従のようですが、われらが輪転王の力を利用しているということからすれば、実はわれらが主で輪転王は従となっています。これは本当の他力ではありません。
 本当の他力の場合、一見したところではわれらが主であるかのようで、実は他力が主でわれらはそのお蔭をこうむっているのです。
 『浄土論』は、一読したところでは、菩薩が五念門を修めることによって、ついには阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏の悟り)にいたることができると説かれているように思えますが、実のところ(「まことにその本を求むれば」)如来の本願力がはたらいているがゆえに速やかに阿耨多羅三藐三菩提にいたることができると曇鸞は読んだのでした。そしてこれが他力ということだと教えてくれました。自分でなしているように思っているが、実は見えない力でなさしめられている、これが他力だと。
 他力は、それに気づいたときにはもうすでにはたらいているのです、否応なくそのなかにいるのです。
 しばしば他力に乗ずると言います。ここでは「他力の乗ずべきをききて、まさに信心を生ずべし」とあります。この言い方はしかし、「これが大悲の願船か。これに乗ると菩提に至れるというから、急いで乗り込もう」というように受け取られかねません。これではわれらが大悲の願船を利用することになります。われらが主で願船は従となります。しかし大悲の願船は、それに気づいたときには、もうすでにその上にいるのです。もうずっとむかしから大悲の願船に乗せてもらっていたのにこれまでまったく気づかず、いまそれに気づいた。このとき願船が主でわれらは従です。
 他力はそれに気づくことではじめてその姿を現すのです。

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本文7 [『教行信証』精読2(その105)]

(18)本文7

 『論註』からの引用の最後です。

 まさにまた例を引きて自力・他力の相を示すべし。ひと三途(火塗=地獄、血塗=畜生、刀塗=餓鬼のこと、三悪道と同じ)を畏るるがゆゑに禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆゑによく禅定を修す。禅定を修するをもつてのゆゑに神通を修習す。神通をもつてのゆゑによく四天下(してんげ、須弥山の四方にある四つの大陸のこと)に遊ぶがごとし。かくのごときらを名づけて自力とす。また劣夫の驢(ろ)にまたがつて上らざれども、転輪王の行くに従へば、すなはち虚空に乗じて四天下に遊ぶに障礙するところなきがごとし。かくのごときらを名づけて他力とす。愚かなるかな後の学者、他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし。みづから局分(はからう)することなかれ。已上

 (現代語訳) また例を出して自力と他力のありようを示しましょう。ある人が三途に落ちるのを恐れて戒律をしっかり守るとしましょう。戒律を守りますからよく禅定を修めることができ、そして禅定をよく修めますと、神通力を身につけることができ、その力で世界のどこへでも自在に遊行することができるようになります。このようなことを自力と言います。次に、力の劣ったものは驢馬にまたがり天空を駆けることはできませんが、転輪王の御幸に随えば、たちまち天がけて世界中のどこへでも自在に行けるでしょう。このようなことを他力と言います。これから後に仏道を学ぶものよ、他力に乗ずる教えを聞いて、信心を起こすべきです。愚かにも、自力の教えにこだわるべきではありません。

 前に他力の例として阿修羅の琴が弾く人のいないのにおのずから妙なる音曲を奏でることが上げられていましたが(1)、ここで再び譬えを出して他力ということの理解をたすけようとしています。

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往相がそのまま還相 [『教行信証』精読2(その104)]

(17)往相がそのまま還相

 往相がそのまま還相であるということについてもう少し考えてみましょう。
 親鸞は善導のことばをもとに「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」と述べていますが(『末燈鈔』第3通)、浄土はこことは別のどこかにあるのではなく、信心のときにこの穢土のただなかに到来するのです。そうして穢土は穢土のままで浄土となるのです。これをぼくは「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」となると言ってきました。より正しく言えば、「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」であることに気づくのです。信心をえるまでは「わたしのいのち」はただの「わたしのいのち」にすぎませんでしたが、信心のときに「わたしのいのち」のただなかに「ほとけのいのち」が到来し、「わたしのいのち」は何も変わらないのに、それが同時に「ほとけのいのち」であることに気づくのです。
 「わたしのいのち」を生きるとは煩悩具足の凡夫として火宅無常の世界(穢土)に生きるということですが、それがそのままで「ほとけのいのち」(浄土)を生きることであると気づいたとき、何が起こるでしょう。まずは「わたしのいのち」を生きていることが恥ずかしくなります。我執にまみれた人生を天にも人にも恥じる思いがわいてきます。そしてそれと結びついて、この火宅無常の世界を共に生きる人たちと一緒に少しでも浄めなければという気持ちが起こってきます。どこかに書いてあって印象に残っていますが、浄土とは「浄らかな土」であるとともに「土を浄める」ことでもあります。この穢れた土を、たとえ海水から一滴だけすくい取るようなものだとしても、一滴だけでも浄めようという思い、これが還相です。
 往相がはじまるとき、還相もまたはじまるのです。『歎異抄』第4章の「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり」にいう文言に囚われて、今生に慈悲のはたらきをすることはできないと速断すべきではありません。われらが「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」ことができると思うのは驕りといわなければなりませんが、他利としての慈悲のはたらきは信心とともにはじまるのです。

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還相のはたらき [『教行信証』精読2(その103)]

(16)還相のはたらき

 ここで、往相のはたらきだけでなく、還相のはたらき(衆生済度の利他行)もまた如来の本願力によるということが述べられます。第22願をどう読むかは難しいところがありますが、浄土に往生した菩薩が衆生済度の願をおこして普賢の徳を修習しようとするなら、普通の菩薩と違い、階位を飛び越えて利他のはたらきができるようにしたいと願っていると解するのが妥当なところでしょう。肝心なことは、このように還相のはたらきをすることができるのも如来の回向によるということですが、さて還相ということについていちばん問題となるのが、衆生利他のはたらきをするのはいつであるかということです。と言いますのも、真宗の大方の解釈では往生は来生ですから、還相のはたらきもまた必然的に来生ということになるからです。
 これではしかし、たとえば善導の「自信教人信」はどうなるのでしょう。今生では「みずから信じる」のみであり、来生にはじめて「人を教えて信ぜしむ」のでしょうか。法然も親鸞も浄土の教えに帰したのち、それを人々に教え弘めたはずですが、これをどう理解すればいいか。往相とはみずからが救われる相であって自利に当たり(願作仏心)、還相は他者を救う相で利他に当たりますが(度衆生心)、少し前のところで曇鸞が言っていましたように(3)、「自利によるがゆへにすなはちよく利他す」であるとともに「利他によるがゆへにすなはちよく自利す」であって、自利と利他はふたつにしてひとつです。
 還相はいつかという難問も、来生の往生という観経的往生観から離れ、信心のときに往生するという立場に立てば、たちまち片付きます。信心において往相回向がはたらくとともに還相回向も同時にはたらくということです。信心において往生がはじまるとき、利他のはたらきもまたはじまるのです。ただ、この「利他」のはたらきは、われらの側からしますと「他利」であることを忘れるわけにはいきません。われらが他者の救いをめざしているには違いなくても、「その本を求むれば」弥陀の本願力によってそうせしめられているだけのことです。往生できたのがわれらの手柄ではないのと同様に、慈悲のはたらきもわれらの手柄ではありません。

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本文6 [『教行信証』精読2(その102)]

(15)本文6

 三願的証のつづきです。

 願(第22願)にのたまはく、たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生して、究竟(くきょう)してかならず一生補処(このたびの生が終われば仏となる等覚の位)に至らしめん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被(き)て、徳本を積累(しゃくるい)し、一切を度脱して、諸仏の国に遊び、菩薩の行を修して、十方諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫(なみの菩薩の仲間)に超出し、諸地の行(初地から十地までの菩薩の行)現前し、普賢の徳(一切の衆生を済度する慈悲の行)を修習せん。もししからずは、正覚を取らじと。仏願力によるがゆゑに、常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。常倫に超出し、諸地の行現前するをもつてのゆゑに、このゆゑに速やかなることを得る三つの証なり。これをもつて他力を推するに増上縁とす。しからざることを得んやと。

 (現代語訳) 三つ目が第22願で、こうあります。わたしが仏となりましたら、他の仏国からわが国に往生したものを必ず等覚の位に至らせましょう。ただ、一切衆生を教化しようという願いをもち、弘誓のよろいを着て功徳を積み、諸仏の国に遊行しては菩薩の行を修めて十方の諸仏を供養し、無量の衆生を目覚めさせてこの上ない悟りに至らせようとする場合はこの限りではありません。そのようなものには、通常の菩薩としての初地から十地までの階位・順序を飛び越えて、衆生済度の徳が積めるようにしましょう。そうでなければ正覚をとりませんと。このように如来の願力により、通常の菩薩としての階位・順序を超えて、衆生済度の徳を積むことができるのです。これが速やかに菩提を得ることができる三つ目の証拠です。以上のようなわけで本願他力こそ菩提にいたるもっともすぐれたはたらきだというのです。そうでないことがあるでしょうか。

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臨終まつことなし [『教行信証』精読2(その101)]

(14)臨終まつことなし

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」(『歎異抄』第1章)。
 ここに親鸞の生きた経験が語られていますが、親鸞にとってこの摂取不捨の利益にあづかるという経験こそ往生であり、それ以外に往生はありません。往生という文字は「浄土へ往き生まれる」ことを示し、ここを離れて、こことは別のどこかへ往くことをイメージさせますが、親鸞の体験した往生は、むしろ何かが向こうからここにやってきて、それが自分を摂取してはなさないということです。浄土とはこことは別のどこかにある世界(アナザーワールド)ではなく、本願名号のはたらきとして「いまここに」届いているのです。あるいはこう言うべきでしょう、いまここに届いた本願名号のはたらき(本願力)が「場」として表現されたものが浄土であると。
 浄土を無量光明土と言いますが、それは、こことは別のどこかに光明無量の世界があるということではなく、いまここに届いた本願名号の無量光が浄土であるということです。
 「真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず」(『末燈鈔』第1通)ということばにも自身の経験からくる確信が語られています。信心のときに摂取不捨されること、これが往生であり、もうこれ以上に何が必要かと言っているのです。臨終を待ち、来迎をたのみとするのは、いまここで本願名号に摂取不捨されたという思いがないからだと言わなければなりません。だからこそ、こことは違うどこかにある浄土にいつか往くことを待ち望むことになるのです。
 「いまだ信心さだまらざらんひとは、臨終をも期し、来迎をもまたせたまふべし」(『末燈鈔』第18通)と言うしかありません。

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すなはち往生をう [『教行信証』精読2(その100)]

(13)すなはち往生をう

 結論を先取りしますと、親鸞は往生も信心のときとすることで曇鸞の大経的往生観をそっくり引き継いだのではないでしょうか。以下、親鸞のことばを拾いながら、そのように考える根拠を示したいと思います。
 親鸞はさまざまなところで往生と正定聚とは同じであると述べています。『一念多念文意』において「真実信心をうれば、すなはち無碍光如来の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを『往生をう』とはのたまへるなり」とありますし、『唯信鈔文意』には「『即得往生』は、信心をうればすなはち往生すといふ。すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ。不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり」とあります。どちらも第18願成就文の「即得往生」を注釈することばで、この往生とは正定聚のことだと述べているのです。
 ということは、正定聚が信心のときですから、往生もまた信心のときとなるのが当然の結論ではないでしょうか。
 ところが真宗の大方の解釈では、これらの文章を次のように解説します。第18願成就文に「即得往生」とあるのは、文字通り往生することではなく、来生の往生が約束される正定聚になるということであり、親鸞はそこを誤解しないように、わざわざ「正定聚の位につき定まるを『往生をう』とはのたまへるなり」と釘をさしているのだ、と。こうして現生では正定聚の利益がえられ、来生で往生という利益がえられるという、いわゆる「現当二益」の考えが貫かれるのですが、これは、そもそも往生は来生のことであるという前提の下で、その結論にうまく合致するように解釈していると言わざるをえません。
 所詮こういう議論は不毛と言うしかありません。まず結論ありきで、文章を都合のいいように読んでいるのですから。大事なことは往生とはどういうことをさしているかを、文字をこねくり回す訓詁学によってではなく、生きた経験から明らかにすることです。そうすることではじめて往生のときがいつであるかが判明するでしょう。

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