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本文1 [『教行信証』精読2(その170)]

     第11回 自然にすなはちのとき必定に入る―正信偈(その3)

(1)本文1

 正信偈の後半、依釈段に入ります。まずはその序です。

 印度西天の論家1、中夏日域2(ちゅうかじちいき)の高僧、大聖3興世の正意をあらはし、如来の本誓機に応ぜることをあかす。(印度西天之論家、中夏日域之高僧、顕大聖興世正意、明如来本誓応機)
 注1 経典に説かれた教えを解説する論を造った人、龍樹と天親を指す。
 注2 中国と日本。
 注3 釈迦のこと。

 (現代語訳) インドの龍樹、天親の両菩薩、そして中国、日本の曇鸞、道綽、善導、源信、源空の高僧たちは、釈迦がこの世にあらわれたもうた意味を明らかにし、阿弥陀如来の本願こそがわれらを救うものであることを教えてくださいました。

 これまでは経典にもとづいて弥陀と釈迦を讃え、その教えの勘どころが詠われてきましたが(依経段)、これからは七高僧を讃え、その方々の説かれた要点が詠われていきます(依釈段)。とは言うものの、七高僧はみな口をそろえて、釈迦の教えは弥陀の本願に集約されるのであり、そしてこの本願の教えがなければわれらの救いはないと説かれたのだというのです。釈迦がこの世にあらわれたのは、弥陀の本願を説くためであった(如来所以興出世、唯説弥陀本願海)ように、七高僧たちが相次いでこの世にあらわれたのも、釈迦から弥陀の本願を受け取り、それを顕彰するためであった(顕大聖興世正意、明如来本誓応機)ということです。
 ここには本願のリレーが鮮やかにあらわれています。
 『歎異抄』2章で、親鸞は「愚身の信心」についてこう語っています、「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらふ歟」と。ここにも弥陀の本願のリレーが語られています。わたし親鸞はただ「よきひと(法然上人)のおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細」はないが、しかしその法然もまた、よきひと(善導大士)のおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細はなく、かくしてついには弥陀のおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細はないということになります。

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難のなかの難 [『教行信証』精読2(その169)]

(17)難のなかの難

 表層の分別知を「みなもてそらごと、たわごと」と言えるのは、深層からやってきた信心の智慧(無分別智)に遇うことができたからです。そこからふりかえってみますと、自分には是非善悪を見分けることができると思っていたことがいかに「そらごと、たわごと」だったかが見えてきます。「われわれはあるものを善と判断するがゆえにそのものへと努力し、意志し、衝動を抱き、欲望するのではなく、反対に、有るものへ努力し、意志し、衝動を抱き、欲望するがゆえにそのものを善と判断するのである」(スピノザ『エチカ』)ことが見えてくるのです。
 それを裏返して言いますと、信心の無分別智に遇うことがなければ、分別知の世界がすべてであり、その外部は存在しませんから、無分別智からでてくることばを誰かから聞くとしても、それを分別知によって判定するしかありません。かくしてそれはただのおとぎ話か、さもなくても自分が生きる上で意味のあるものとは到底思えないということになります。弥陀の本願念仏を信楽受持することははなはだもって難であると言われるのはこのような事情があるのです。
 先に、無意識は意識のガードが甘くなった隙をねらって、ふいに姿をあらわすと言いましたが、それを逆に言いますと、意識は無意識に侵入されないように強固なバリアを築いているということです。信心の無分別智は、この強固なバリアの隙をついてあらわれるのですから、それがどれほど大変なことであるかが分かろうというものです。でも、どれほど難しいとしても、無分別智にひとたび「あひがたくしていまあふこと」ができましたら、その光は分別知の虚妄を明らかにしてくれるのです。
 さてここで大急ぎで言っておかなければならないのは、無分別智の光で分別知が「みなもてそらごと、たわごと」であることが明らかになったからといって、では分別知はすべからく捨てるべしとはならないということです。分別を捨てるということは、もはや本能がそれに代わることができない以上、人間として生きることを棄てることになります。としますと、無分別智から「みなもてそらごと、たわごと」と気づかされながら、その「そらごと、たわごと」を生きるしかありません。そのとき「そらごと、たわごと」を生きることに深い安心があるのです。

                (第10回 完)

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本文5 [『教行信証』精読2(その168)]

(16)本文5

 正信偈の前半、依経段の最後です。

 弥陀仏の本願念仏は、邪見驕慢悪衆生、信楽受持すること、はなはだもてかたし。難のなかの難、これにすぎたるはなし。(弥陀仏本願念仏、邪見驕慢悪衆生、信楽受持甚以難、難中之難無過斯)

 (現代語訳) 弥陀の本願を信じ念仏することは、頑なに分別心を手放そうとしない驕慢な悪衆生には、はなはだ難しいことです。これ以上に難しいことはないと言わざるをえません。

 この四句のもとは、大経の最後のところで釈迦が弥勒にこの経を付属する(与えて世に広めるよう託す)ことばのなかにあります。「如来の興世に値(もうあ)ひがたく、見たてまつり難し。諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん」と。
 如来に遇うことは難しく、その教えを聞くことは難しいが、たとえ聞くことができたとしても、その教えを生きる指針とすることはとんでもなく難しいと言います。たまたま仏の教えを本で読んだり、人から聞いたりすることはあっても、ただのおとぎ話としか受けとめられないか、あるいは、何かを言っているとしても自分が生きる上で意味があることとは思えないのが普通だということです。
 なぜそんなにも難しいかという問いに、親鸞は「邪見驕慢悪衆生」と答えます。邪見といいますのは、すぐ上でみましたように、表層の意識において、これは是で、これは非、これは善で、これは悪と分別することです。そのようにあらゆることの是非善悪を分別しようとすること、これが邪見であり、そして自分には是非善悪を分別する力があるとおごりたかぶること、これが驕慢です。それは「みなもてそらごと、たわごと」ではないかと親鸞は言うのです。

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広大勝解者とは [『教行信証』精読2(その167)]

(15)広大勝解者とは

 後半の四句に、諸仏が信心・念仏の人を「広大勝解者」とほめ「分陀利華」と称えるとありますが、何かこそばゆいものがあります。信心・念仏の人とは、おのれを「一文不通のもの」とし、「罪悪深重、煩悩熾盛」であると自覚するもののはずなのに、それが「この上なく智慧のあるもの」であり「白蓮華のように清らか」と称えられるというのですから、どうも落ち着きません。とりわけ「智慧がある」とされるのはどういうことか、もういちど意識と無意識に戻り、その意味するところを考えてみましょう。
 われらのこころの表層は意識の守備範囲ですが、その下の深層に無意識の世界が広がっています。われらは普段、表層の意識において、これは是で、これは非、これは善で、これは悪と分別しています。しかしこのようにものごとを分別して知ろうとすること自体、親鸞に言わせれば「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなき」(『歎異抄』後序)であり、その意味では、どれほど分別知があるとされる人も所詮「一文不通」と言わなければなりません。
 ところがその意識のガードの隙をくぐってふいっと無意識が姿をあらわし、そのなかにキラッと光る智慧があるのです。これはわれらが意識してつかみ取った智慧ではなく、むしろ意識のガードが緩んだその隙を狙うように、無意識のむこうからやってきた智慧であり、思いもかけずその智慧に出あうことになります。これが信心の智慧です。これはわれらがつかみ取ったものではなく、むこうからおのずとやってきたものですから、「広大勝解者」と言われても、その広大勝解は賜りたるものに他なりません。
 それは賜りたる智慧であるとともに、もとからあった智慧であるとも言えます。深層の無意識のなかにもともとあったのに、それに出あう機会がなかっただけのことです。賜るという言い方にはすでに自と他の区別があります。もともと自のなかになかったものが他から与えられるというように。ところが深層の無意識の世界では、そもそも自と他の区別がありません。それはもともとあったという意味では自であるとともに、むこうからやってくるという意味では他であるのです。
 無意識の底は抜けていて、そこにはもはや自も他もありません。だからこそ、そこで凡夫と如来が遇うことができるのです。

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無意識がふらっと [『教行信証』精読2(その166)]

(14)無意識がふらっと

 意識から無意識へ向かう通路は存在しません。意識にとって世界は意識の世界で完結していて、その外がありませんから、外なる無意識の世界へ向かおうにも、向かいようがありません。としますと、唯識の人たちが意識の深層に無意識の阿頼耶識と末那識があると主張することには根拠がないのでしょうか。ただのナンセンスにすぎないのでしょうか。いえ、決して。なるほど意識から無意識への通路はありませんが、無意識から意識への通路はちゃんとあるのです。
 いかがわしいオカルトの話をしているのではありません、われらの日常の中にその証拠があります。夢です。夢のなかに無意識の世界をのぞき込もうとしたのはフロイトやユングたち、いわゆる精神分析学者です。夢は無意識がその姿を垣間見せてくれるのぞき窓だというわけです。意識はどんなに頑張っても無意識の世界を知ることはできませんが、無意識自身が夜寝ている間に夢というかたちでその姿をあらわし、記憶の中にその痕跡を残してくれることによって、無意識の世界が存在することを知ることができるのです。
 無意識はこちらから近づこうとしても近づけませんが(近づこうとすればするほど遠ざかりますが)、向こうから思いもかけず勝手に近づいてくるということです。思いもかけずと言いましたが、どんな時に近づいてくるかはおおよそ推測できます。それは意識のガードが緩んだときです。夜寝ているときに無意識が姿をあらわすのは、そのとき意識も眠りこけ、そのガードがいちばん甘くなっているからです。その隙を狙って無意識がふらっと姿を見せます。
 さて、気づきです。これまで意識していなかったことが、あるときふいに意識にのぼるのが気づきですが、これは無意識がふらっと姿を見せるのとよく似ています。こちらから無意識に近づけないように、気づきもこちらから気づこうとして気づけるものではありません。気づこうとすればするほど気づけないのに、あるとき向こうから思いもかけず気づきがやってくる。これが本願を信じるということであり、そして「よこさまに五悪趣を超截す」ということです。

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よこさまに [『教行信証』精読2(その165)]

(13)よこさまに

 「よこさま」とは横にひとっ跳びするというイメージで、階段を一段ずつ上がっていくイメージの「たてさま」と対になります。時間的には「よこさま」が「頓」で、「たてさま」が「漸」となるでしょう。前に念仏と諸善が「比校対論」されたときに「頓漸対、横竪対」とありましたように、念仏は「頓」で「横」であるのに対して、諸善は「漸」で「竪」です。そしてこれらのコントラストの根底にあるのは「他力」と「自力」の対であることは言うまでもありません。
 さて、「階段を一段ずつ上がる」のが自力であるのは当たり前として、「横にひとっ跳びする」のも自力ではないのかという疑問が生まれるかもしれません。たしかに階段を一段一段上がるのは時間がかかるのに対して、横にひとっ跳びするのはあっという間ですが、それは所要時間の相対的な違いにすぎないと見ることもできるでしょう。ここにこのイメージの限界があると言わざるをえません。では「よこさまに」をもっとピタッと言い当てることはないでしょうか。
 それはやはり「気づき」です。
 「よこさまに超える」というのは、これまで意識したことがなかったことにふと「気づく」ということです。「ふと(不図、つまり図らずも)」ということばこそ、気づきは自力ではなく他力であることをよく物語っています。しかし、気づくのも自分ではないか、となおも問われるかもしれません。おっしゃる通り、気づくのは自分であり、他の誰でもありません。でも、自分の力で気づくのではありません。気づきは紛れもなく自分において起こりますが、でも自分が起こしているのではないということです。
 ここで唯識の説を参照したいと思います。唯識では、われらが意識している世界(いわゆる六識、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)の深層に、われらが普段は意識していない阿頼耶識(あらやしき)と末那識(まなしき)の世界があると教えてくれます。その詳細は省かざるをえませんが、ここで考えたいのはそのような無意識の世界のことをどうして知ることができるかということです。意識していないこと、意識しようともできない世界があることをどのようにして知ることができるのか。

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本文4 [『教行信証』精読2(その164)]

(12)本文4

 これまで、本願の信をうれば煩悩を断ぜずして涅槃をうること、そして摂取の心光に照護されることが述べられましたが、次いでよこさまに五悪趣を超截(ちょうぜつ)して、仏から称賛されることが詠われます。

 信をえて、みてうやまひ、おほきに慶喜すれば、すなはちよこさまに五悪趣1を超截す。一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏広大勝解のひととのたまへり。このひとを分陀利華2となづく。(獲信見敬大慶喜、即横超截五悪趣、一切善悪凡夫人、聞信如来弘誓願、仏言広大勝解者、是人名分陀利華)
 注1 地獄・餓鬼・畜生・人・天。
 注2 プンダリーカ、白蓮華のこと。

 (現代語訳) 本願に遇うことができ、おおいに喜べば、そのとき横さまに五悪趣を超えることができます。一切の善悪の凡夫が弥陀の本願を聞いて信ずれば、その人を諸仏はすぐれた智慧をもった人と称えます。その人を白蓮華のような人だと称えます。

 最初の一句「信をえて、みてうやまひ、おほきに慶喜すれば」は、大経「往覲偈(おうごんげ)」の「法を聞きて、よく忘れず、みてうやまひ、大慶をえば」が下敷きになっています。そして第二句「すなはちよこさまに五悪趣を超截す」は、同じく大経「三毒・五悪段」の序に「よこさまに五悪趣を截(き)り」とあるのにもとづき、その二つをあわせて、本願に遇うことにより、その力で迷いの生死を断ち切ることができると詠っているのです。そしてつづく四句も如来会と観経に拠って、念仏の人は仏たちから「広大勝解者」と称賛され「分陀利華」と称えられると詠います。
 まず前半の二句ですが、やはり「よこさまに」ということばが印象的です。「よこさまに五悪趣を超截す」というのはどういう事態をいうのでしょう。これが主題として取り上げられるは信巻においてですが、先回りしてその意味するところにこころを潜めてみたいと思います。

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摂取の心光 [『教行信証』精読2(その163)]

(11)摂取の心光

 さてここで考えたいのは、「摂取の心光つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破す」とすると、一切の衆生がもうすでに救われているということにならないだろうかということです。
 摂取の心光があまねく照護しているならば、もうみんな往生していることにならないか、しかし実際にはすでに往生しているものとまだ往生していないものがいるではないか、という疑問ですが、これははやくも曇鸞が『論註』において問題にしています。天親が『浄土論』の冒頭で「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて」と述べていることについて、こんな問いかけをします、「問ひていはく、もし無礙光如来の光明無量にして、十方国土を照らしたまふに障礙(しょうげ、さわり)するところなしといはば、この間(けん、世界)の衆生、なにももつてか光照を蒙らざる。光の照らさざるところあらば、あに礙あるにあらずや」と。
 この問いに曇鸞はこう答えます、「答へていはく、礙は衆生に属す。光の礙にあらず。たとへば日光は四天下(してんげ)にあまねけれども、盲者は見ざるがごとし。日光のあまねからざるにはあらず」と。意味は明らかでしょう。弥陀の光明はあまねく照護しているのだが、それを見ることができないものが照護されていないように思っているのであり、それは光明の咎ではないということです。そしてその譬えとして日光と盲者を引き合いに出します。日光はあまねく照らしているのだが、残念ながら盲者はそれが見えず、だから日光がないかのように思うだけだと。
 しかも、日光は日光それ自体として存在していますから、それが盲者には見えなくても存在しますが、摂取の心光は、それに気づかなければどこにも存在しません。かくして摂取の心光はつねに、そしてあまねく照護していますが、それに気づきませんと、どこにもないということになります。観経の「(弥陀の)光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏衆生を摂取して捨てず(光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨)」も、弥陀の光明は念仏の衆生だけを照らすという意味ではなく、一切衆生をあまねく照らしているが、ただそれに気づかなければどこにも存在しないと解しなければなりません。

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本文3 [『教行信証』精読2(その162)]

(10)本文3

 次は信心を得るとつねに弥陀の心光に照護されることが詠われます。

 摂取の心光つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天をおほへり。たとへば日光の雲霧におほはるれども、雲霧のしたあきらかにして闇なきがごとし。(摂取心光常照護、已能雖破無明闇、貪愛瞋憎之雲霧、常覆真実信心天、譬如日光覆雲霧、雲霧之下明無闇)

 (現代語訳) 弥陀の光明はつねにわれらを照らし護ってくださいます。その光により無明の闇は破られましたが、しかし貪愛と瞋憎の厚い雲はいつも真実の信心の天を覆っています。それは日の光が雲や霧に覆われても、その下は明るく闇はないのと同じことです。

 同じ趣旨のことを源信は「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさえてみずといへども、大悲ものうきことなく、つねにわれをてらしたまふ」と述べています(この文は正信偈の源信讃の中で取り上げられます)。一見したところ、摂取の心光と煩悩の雲霧は否定しあうように思えますが、実際にはそのようにはなっていないということです。煩悩の雲霧が天を覆っても、摂取の心光がある限り、その下に闇はないというのです。摂取の心光と煩悩の雲霧は相互に否定しあう関係ではなく、むしろ互いに依存しあう関係にあるといわなければなりません。さてしかしこれはどういうことか。
 日光と雲霧は、それぞれがそれ自体として存在するものとしては互いに否定しあう関係にあります。雲霧が多ければ多いほど日光は地上に届きにくくなり、密雲がびっしりと空を覆えば、さながら夜のようになります。ところが摂取の心光と煩悩の雲霧のどちらもそれ自体としてどこかに存在するものではありません。それらはただ気づきとしてあるだけで、気づかなければどこにもありません。そして気づきとしての摂取の心光と煩悩の雲霧は互いに否定しあうどころか、むしろ互いに他に依存しています。すぐ前のところで述べたことを思い起こしていただきたいのですが、己が嘘つきであることに気づくことにより(これが煩悩の雲霧の気づきです)、はじめて仏に気づくことができるのであり(これが摂取の心光の気づきです)、また仏に気づいてはじめて、己が嘘つきであることに気づくのです。

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海に入りて一味 [『教行信証』精読2(その161)]

(9)海に入りて一味

 「凡聖逆謗ひとしく回入すれば、衆水、海にいりて一味なるがごとし」の二句も『論註』に「海の性(しょう)の一味にして、衆流入れば、かならず一味となりて、海の味はひ、かれに随ひて改まらざるがごとし」とあるのにもとづいています。やれ凡夫だ、やれ聖者だ、やれ悪人だ、やれ善人だと、ひとり一人の違いを言い立てていても、本願の海に入ってしまえば、みな同じ味わいになってしまうということです。「わたしのいのち」はそれぞれに独特の味わいがありますが、その「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であり、そこではみな同じ味わいであると。
 頭に浮ぶのが『歎異抄』5章の「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟(ぶもきょうだい)なり」ということばです。ここで有情とは人間のみならず、鳥獣虫魚、いのちあるものすべてをさします。
 そう言えば、釈迦がまだ少年であった頃、父王とともに田起こしの祭りに行ったとき、起こされた土からはい出てきた虫を一羽の鳥がさっとついばみ、飛び去って行く様を見て深い感慨をもよおし、「あわれ、生きものは互いに食み合う」と言ったと伝えられています。ついばまれる虫も、ついばむ鳥も、みな自分と同じいのちを生きているのに、一方は食われ、他方は食い、そして自分はただそれを見ているという世のありように「あわれ」という詠嘆がもれ出たのです。この詠嘆の中には、虫も鳥も自分もみなひとつのいのちであるという思いと、にもかかわらず互いに食み合うという対立関係になければならないという思いが含まれています。
 「わたしのいのち」がただ「わたしのいのち」でしかないところでは、「互いに食み合う」ことにあわれをもよおすことはないでしょう。「わたしのいのち」を全うするために必要とあらば他のいのち(これまた「わたしのいのち」にすぎないと観念されます)を食うのは当たり前と思うからです。「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」であると気づいてはじめて、「わたしのいのち」のために他のいのち(これまた「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」です)を食わねばならないことをあわれと思い、また懺悔の念が生まれます。このように「互いに食み合う」ことを悲しむのと、自他ともにひとつのいのちを生きているのを喜ぶことがひとつです。悲しみつつ、喜ぶのです。

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