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永遠といま [『教行信証』精読2(その157)]

(5)永遠といま

 「ほとけのいのち」と「わたしのいのち」を無限の暗がりとその中にぽっかり浮かぶ陽だまりとしてイメージしましたが、このイメージは「永遠」と「いま」の関係をあらわすと見ることもできます。「永遠」は「いま」を取り囲む無限の暗がりであり、「いま」はそのただ中に浮ぶ陽だまりであると。そして無限の暗がりとしての「永遠」は、そこに浮ぶ陽だまりとしての「いま」においてはじめてその姿を垣間見せ、逆に「いま」は、それを浮かび上がらせている「永遠」に支えられてはじめて「いま」として存在することができます。「永遠」は「いま」においてあり、「いま」は「永遠」においてあると言えます。
 われらは時間というものを過去から現在、そして未来へと(あるいはその逆向きに)直線的に流れるものとしてイメージし、それ以外の時間はないと思い込んでいますが、そうとも言えないことをユクスキュルの『生物から見た世界』は教えてくれます。
 「この目のない動物(マダニ)は、表皮全体に分布する光覚を使ってその見張りやぐら(灌木の枝先のことです)への道を見つける。この盲目で耳の聞こえない追いはぎは、嗅覚によって獲物の接近を知る。哺乳類の皮膚腺から漂い出る酪酸の匂いが、このダニにとっては見張り場から離れてそちらへ身を投げろという信号として働く。そこでダニは、鋭敏な温度感覚が教えてくれるなにか温かいものの上に落ちる。…あとは触覚によってなるべく毛のない場所を見つけ、獲物の皮膚組織に頭から食い込めばいい。こうしてダニは温かな血液をゆっくりと自分の体内に送り込む。…このダニにとってたっぷりの血のごちそうはまた最後の晩餐でもある。というのは、彼女にはもう、地面に落ちて産卵し死ぬほかになにもすることがないからだ」。
 このようにマダニは哺乳類から出る酪酸の匂いをひたすら待ち続け、その瞬間に一切を賭けていると言えます。しかし「ダニのとまっている枝の下を哺乳類が通りかかるという幸運な偶然がめったにないことはいうまでもない。…ロストックの動物学研究所では、それまですでに18年間絶食しているダニが生きたまま保存されていた」。マダニの時間は直線として一様に流れる時間ではなく、無限の暗がりとしての「永遠」と、そこにぽっかり浮びあがる陽だまりとしての「いま」によって成り立っているとは言えないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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