SSブログ

一切皆苦 [『阿弥陀経』精読(その36)]

(8)一切皆苦

 本願の世界に「おさまって生きる」というのは、この世がサハーであることから目をそむけるということです。さてしかし、それができるのは、本願の世界とサハーの世界とは別であると考えられているからです、こちらに本願があり、あちらにサハーがあるという具合に。しかし浄土の教えの要諦は、少なくとも親鸞的な見たてによれば、サハーのただなかに本願が成就しているということであり、サハーの世界がそっくりそのままで本願の世界であるということです。
 ここに本願の教えが「難信の法」と言われる所以があります。
 本願の世界とは、一切衆生が救われますようにという願い、生きとし生けるものが苦しみから解放されて生きられますようにという願いがかけられている世界です。一方、サハーとは苦しみに満ち満ちた世界、みな苦しみに堪え忍ばなければならない世界ですから、両者は互いに相反するのではないでしょうか。サハーとは本願の届いていない世界ではないかと思われます。ところがサハーの世界がサハーの世界のままでそっくり本願の世界だと言われるものですから、それを信楽受持することが「難のなかの難、これに過ぎたるはなし」となります。
 このサハーの世界がそのまま本願の世界であるという「難信の法」を考えるために、基本に戻り、苦しみについて思いを潜めてみたいと思います。
 釈迦は「生きることはすべて苦しみである(一切皆苦)」という気づきからスタートしました。そして代表的な苦しみとして生老病死の四苦と、それに愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦を加えた八苦を上げます。そのそれぞれはよく分かるのですが、ぼくが長い間ひっかかってきたのは「生きることのすべてが苦」とされる点でした。生老病死や愛別離苦などが苦であることは了解できても、生きることには楽しいこと、嬉しいこともあるではないか、どうして「すべて苦」と言われるのかということがどうにも釈然としないままでした。その霧が晴れたように思えたのは、生きる苦しみのよってきたる元が我執であるということが腹の底から了解できたときでした。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

難信の法 [『阿弥陀経』精読(その35)]

(7)難信の法

 さて正宗分の最後は、諸仏が釈迦の苦労を讃歎する段です。

 舎利弗、われいま諸仏の不可思議の功徳を称讃するがごとく、かの諸仏等もまた、わが不可思議の功徳を称説してこの言をなしたまはく、釈迦牟尼仏、よく甚難希有の事をなして、よく娑婆国土の五濁悪世、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁のなかにおいて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、もろもろの衆生のために、この一切世間難信の法を説きたまふと。舎利弗まさに知るべし、われ五濁悪世においてこの難事を行じて、阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切世間のために、この難信の法を説く。これを甚難とすと。

 釈迦はここで本願念仏の法は「難信の法」であることを強調しています。この五濁悪世においてこの教えを受持するのは「難のなかの難、これに過ぎたるはなし」(これは正信偈の言い回しです)であると。
 すぐ前のところで紹介しましたメールも、「南イエメンやシリアの難民。あえて犯罪を犯し刑務所の中でしか生きられない知的障害者」のことを思うにつけ、どのようにしてこの法を信楽受持することができるのだろうと述べていました。そもそも、弥陀の本願があり、それがとうの昔に成就しているというのに、どうして「南イエメンやシリアの難民。あえて犯罪を犯し刑務所の中でしか生きられない知的障害者」がいるのか、という根本的疑問です。
 本願に生きるとはどういう生き方か。ある方から言われたことがあります、「ぼくはおさまった生き方はしたくない」と。その方にとって本願に生きるとは「おさまった生き方」に見えるということでしょう。何か特別な世界のなかに閉じこもり、外の世界のことには目を向けない、そうすることで心の安定を維持しようとする、これが「おさまった生き方」ということばで言わんとしていることだと理解しました。マルクスが「宗教はアヘンである」と言ったのも同じ趣旨でしょう。
 さてしかし、本願に生きるとはそのような「おさまった生き方」でしょうか。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

光と闇 [『阿弥陀経』精読(その34)]

(6)光と闇

 「かわいそう」とは思うが、自分とは関係のないことと切り離して考えるのと、どれほど遠く隔たったところのことであれ、自分とは無縁のこととは思えないのとの対比にもういちど戻りますと、前者は「その人たちは気の毒だが、自分にだって嫌なことはいろいろおこる、この世には嫌なこともあれば、いいこともあって、禍福はあざなえる縄のごとしである」と思っています。それに対して後者は、世界のあらゆる苦しみがわが苦しみとして迫ってきますから、「この世はまさにサハーであり、闇に閉ざされている」と感じざるをえません。
 さてしかし、この世はまさに闇に閉ざされたサハーであるという「気づき」は如何にして可能か。
 この世は闇に閉ざされていると気づいたとき、その人はすでにして光の存在にも気づいています。いつももち出す譬えで恐縮ですが、神が「光あれ」と言われる前の世界に誰かがいたとして(これは聖書のシナリオに反しますが)、その人にとってそこはどんな世界でしょうか。真っ暗闇に決まっているじゃないか、と言えるのは光を知っているからであり、光の存在を知らなければ、そこが闇であると思うことはありません。そこは光の世界でないのはもちろんですが、闇の世界でもなく、なにものでもない世界であるとしか言えません。そこに光がさっとさし込んではじめて、「ああ、ここは闇の世界なのか」と思い至るのです。
 「ああ、ここは闇のサハーだ」という気づきがおこったとき、その人はすでに浄土の光に気づいているはずです。浄土の光の気づきがなければ、この世は光の世界ではないのはもちろん、闇のサハーでもなく、なにものでもない世界でしょう。かくしてサハーの闇の気づきと浄土の光の気づきはコインの表と裏のようにひとつであると言わなければなりません(これが善導の二種深信です)。サハーのただなかに浄土が現在しているというのはそういうことです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

サハー [『阿弥陀経』精読(その33)]

(5)サハー

 突然ですが、ある方からこんなメールをいただきました、「往相還相の、戻ってきて衆生を救済するという思想、にもかかわらずの、例えば南イエメンやシリアの難民。あえて犯罪を犯し刑務所の中でしか生きられない知的障害者。本願に遇える人とはどんな人?などと、『お迎え』が自分の中で広がっていきそうもありません」と。ここで「お迎え」と言われているのは、臨終の来迎のことではなく、もうすでにお迎えにあずかっているということで、この娑婆世界に浄土が現在しているという意味です。「南イエメンやシリアの難民」あるいは「あえて犯罪を犯し刑務所の中でしか生きられない知的障害者」の存在を考えるとき、ここに浄土が開示されているとはとても思えないということでしょう。
 この方は「南イエメンやシリアの難民」の苦をわが苦と感じ、「あえて犯罪を犯し刑務所の中でしか生きられない知的障害者」の苦をわが身に感じています。多くの人は、そのような人たちのことを知ると「かわいそう」とは思っても、所詮わが身とは関係のない存在だと切り離して考えるのに対して、この方は自分とのつながりの中で彼らのことを思っています。どれほど遠く隔たった世界のことであっても、自分と無縁のこととは思えない。そしてそこからこの世界をサハー(娑婆)、すなわち苦しみを堪え忍ぶところと感じています。だからこそ、どうしてこのサハーに浄土が現在していると言えるのかという疑念が生じることになるのです。
 この世を娑婆世界と感じるのは一つの「気づき」であるということ、ここに思いを潜めたい。
 「知る」と「気づく」の違いについてあらためて確認しておきましょう。「知る」とは、われらが何かについて判定を下すこと、ぼく流の言い方を許していただけるなら、何かを知的にゲットすることです。それに対して「気づく」とは、われらが何かに知的にゲットされることだと言えます。何かがわれらをつかみ取って放さない。で、この世を娑婆世界と感じるのは、われらがこの世が娑婆であると判定を下すことではありません。われらがこの世は苦しみを堪え忍ぶところであるという事実をゲットするのではなく、逆に、その事実がわれらをゲットして放さないのです。「南イエメンやシリアの難民」、「あえて犯罪を犯し刑務所の中でしか生きられない知的障害者」の苦しみがわれらに迫ってきて、ここは娑婆世界であると頷かざるをえなくなるということです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

即得往生 [『阿弥陀経』精読(その32)]

(4)即得往生

 しかし「いま」発願すれば、文字通り「いま」生まれるというのはあまりに常識から外れていると言わざるをえません。通常は、「いま」発願しても、ただちに実現するのではなく、何がしかの時間の後に実現するものです。「いま」何かが願われることで、そこからものごとがスタートして、それが成就すべく手筈が整えられ、そうしてはじめて実現の運びに至るからです。「いま」願ったことが「いま」実現することがあるとすれば、それは「いま」何かを願うよりも前に、それはもうすでに願われており、その願いが成就するようにことが進んでいるとしか考えられません。
 往生を発願するというのは、その場合に当たります。われらが往生を願うとき、実はそれに先立ってわれらの往生が願われているのです。法蔵菩薩の「若不生者、不取正覚(もし生れずば、正覚をとらじ)」という願いがすでにおこされており、だからこそわれらが往生を願うことができるということです。こう言ってもいいでしょう、われらが往生を願うというのは、すでにわれらの往生が願われていることに気づくことに他ならないと。「帰っておいで」という声が聞こえていることに気づいたから(これが「聞其名号」です)、それにこだまするように「帰りたい」と願うのです(これが「願生彼国」です)。
 すでにして「帰っておいで」という願いがあり(本願です)、そのための手筈も整えられているのですから(浄土です)、「帰りたい」と願ったそのとき、ただちに帰ることができるのです。いや、こう言うべきでしょう、「帰りたい」と願ったそのとき、「ああ、もうすでに帰っているではないか」と気づくのです。これが「即得往生」ということですが、さあしかし、浄土に帰りたいと願ったとき、そこに浄土が現在している(この言い回しは曽我量深氏のものです)ということは、そうすんなりとは腹におさまってくれません。この娑婆世界が、そのままで浄土であると言われても、「うーん」と唸らざるをえないところがあります。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

「すでに」「いま」「まさに」 [『阿弥陀経』精読(その31)]

(3)「すでに」「いま」「まさに」

 阿弥陀仏の名号を聞いたものは、そのとき諸仏に護念されるという利益を得られるのですから、「このゆゑに舎利弗、なんぢらみなまさにわが語および諸仏の所説を信受すべし」と釈迦は勧めます。くどいようですが、阿弥陀仏の名号を聞くことと、「わが語および諸仏の所説」を聞くことは別であることをもう一度確認しておきたいと思います。釈迦がどれほど力を込めて「わが語および諸仏の所説を信受すべし」と勧めても、「わが語および諸仏の所説」を聞くことは阿弥陀仏の名号を聞くことの代わりにはなりません。「わが語および諸仏の所説」を聞くことを通じて、そのなかから阿弥陀仏の名号を聞くこと、これが本願名号に遇うということです。
 さて釈迦は「わが語および諸仏の所説を信受すべし」と勧めたあと、「舎利弗、もし人ありて、すでに発願し、いま発願し、まさに発願して、阿弥陀仏国に生ぜんと欲はんものは、このもろもろの人等、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得て、かの国土において、もしはすでに生れ、もしはいま生れ、もしはまさに生れん」と言います。ここで注目すべきは、「すでに」(過去)と「いま」(現在)と「まさに」(未来)を区別し、そのそれぞれについて、「すでに」発願したものは「すでに」かの国土に生まれ、「いま」発願したものは「いま」生まれ、「まさに」発願するものは「まさに」生まれるとされていることです。
 これは「阿弥陀仏国に生ぜんと欲はんもの」は、「そのとき」生まれるということですが、しかし発願した「そのとき」生まれるとはどういうことでしょう。
 前に、阿弥陀仏の名号に遇うことができ、その名号を執持する人は「命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖聚と現じてその前にましまさん。この人終らん時、心顚倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得」とありました。それと整合させようとしますと、「いま」発願した人は、その人の命が終わるそのときに往生するのであり、もっとずっと先のことではないと解釈することになるでしょう。しかし「かの国土に生れ」るというのは「阿耨多羅三藐三菩提を〈退転せざる〉ことを得」ることに他ならないのですから、「いま」発願したものは、文字通り「いま」生まれると考えていいのではないでしょうか。第18願成就文の「かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん(願生彼国、即得往生、住不退転)」の「すなはち(即)」は「そのとき」であるように。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

諸仏護念 [『阿弥陀経』精読(その30)]

(2)諸仏護念

 親鸞は「信巻」において第18願成就文の「聞其名号、信心歓喜、乃至一念」を注釈し、その「一念」とは信心に二心のないことであるとした上で、そのような「金剛の真心を獲得(ぎゃくとく)すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益(やく)を獲。なにものをか十とする。一つには冥衆護持の益、云々」とあるのですが、その四つ目に諸仏護念の益が上げられるのです。「その名号を聞き、信心歓喜する」行者を諸仏が影の寄り添うように護念してくださるということです。親鸞はここではっきりと「現生十益」として、将来の利益ではなく、「いまここ」で得られる利益であることを確認していますが、この経に「この諸仏の所説の名および経の名を聞かんもの、このもろもろの善男子・善女人、みな一切諸仏のためにともに護念せられて」と言われているのも「いまここ」であることは明らかです。
 さてでは「諸仏護念」とは具体的にどういうことでしょう。「護念」という文字から受ける印象では、さまざまな災難に遭わないよう護ってもらえるという意味に受けとってしまいますが、それを言っているのでないことは、「みな一切諸仏のためにともに護念せられて」にすぐつづいて、「みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得ん」とあることから分かります。阿耨多羅三藐三菩提とは仏のさとりのことで、それを得るのは先のことですが、そこから退転しない、つまりかならず仏のさとりを得られるように護ってもらえるということです。親鸞は現生十益の最後に「正定聚に入る益」を上げていますが、正定聚とはかならず仏のさとりを得られる位のことです。したがって諸仏護念の益とは入正定聚の益と別ではありません。
 本願を信じ念仏を申す身になっても、さまざまな災難に遭うことはあります。天災にも人災にも遭い、病魔に苦しむこともあることでしょう。しかし、どんな逆境におかれても、もう正定聚の位から退転することはないということです。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで、すでに「ほとけのいのち」であることに気づかせてもらったのですから、大船に乗ったような安心(あんじん、どんな状況にあってもそれに左右されない安心)を得られたということです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

本文1 [『阿弥陀経』精読(その29)]

             第4回 難信の法

(1)本文1

 六方段のあと、さらに諸仏の護念について説かれます。

 舎利弗、なんぢが意(こころ)においていかん。なんがゆゑぞ名づけて一切諸仏に護念せらるる経とするや。舎利弗、もし善男子・善女人ありて、この諸仏の所説の名(阿弥陀仏の名)および経の名を聞かんもの、このもろもろの善男子・善女人、みな一切諸仏のためにともに護念せられて、みな阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏のさとり)を退転せざることを得ん。このゆゑに舎利弗、なんぢらみなまさにわが語(ことば)および諸仏の所説を信受すべし。舎利弗、もし人ありて、すでに発願し、いま発願し、まさに(将来)発願して、阿弥陀仏国に生ぜんと欲はんものは、このもろもろの人等、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得て、かの国土において、もしはすでに生れ、もしは今生れ、もしはまさに生れん。このゆゑに舎利弗、もろもろの善男子・善女人、もし信あらんものは、まさに発願してかの国土に生るべし。

 これまでのところでは「この不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経」というように言われてきました。つまり護念されるのは経であるとされてきたのですが、ここにきて、「この諸仏の所説の名および経の名を聞かんもの、このもろもろの善男子・善女人、みな一切諸仏のためにともに護念せられて」と言われ、護念されるのは弥陀の名とこの経の名を聞くものとなっています。一切諸仏はこの釈迦の説く「経」を護念するだけではなく、弥陀の名を聞き、経の名を聞くもろもろの「善男子・善女人」を護念するというのです。そしてそのものたちは「みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得ん」と言われます。ただちに阿耨多羅三藐三菩提すなわち仏のさとりを得るのではありません、それを得ることから退転しないようになるというのです。いわゆる正定聚不退の位を得るということです。
 親鸞は「信巻」において現生十益の一つに「諸仏護念」を上げていますが、ここで説かれているのはそのことです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問