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法蔵比丘の願力 [『観無量寿経』精読(その35)]

(9)法蔵比丘の願力

 ここには限りませんが、一々の○○には八万四千の△△があり、その一々の△△にはまた八万四千の××があるという説き方を忠実に追っていきますと、極大と極小のあいだで目くるめくような思いにさせられます。そしてこれはもうわれらの心のキャパシティをはるかに超えていると感じさせられます。それがミタからアミタへの通路は閉ざされているということに他ならないでしょう。われら「ミタのいのち」には「アミタのいのち」に近づくすべはないことを思い知らせようとしているということです。これが顕の義に対する隠の義に違いありません。
 さて、ここで釈迦は阿難に「かくのごときの妙華は、これもと法蔵比丘の願力の所成(しょじょう)なり」と告げます。突如、無量寿仏の因位(いんに)である法蔵比丘が登場してきて、すべてはその願力のなせるわざであると告げられるのです。これまでのところでは、無量寿仏とその極楽浄土は所与のものとして説かれてきましたが、無量寿仏の因位は法蔵比丘であり、そして極楽浄土のすべては法蔵の本願が成就したものであることが明かされるのです。ここにおいて『観経』が『大経』とひとつに繫がれたと言っていいでしょう。『大経』では、法蔵菩薩の四十八願が成就して無量寿仏となり、そして極楽浄土が生まれたことが説かれたのですが、『観経』において、韋提希が無量寿仏の極楽浄土へ往生することを願い、釈迦がそのための方法を説くという関係になります。
 かくして韋提希が選んだ無量寿仏とその浄土の根源は法蔵菩薩の四十八願にあることが明らかになります。そして四十八願の眼目は、浄土教の祖師たちの誰もが共通して、第十八願にあると言います、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば、正覚を取らじと」と。さてしかしこれをどう読むべきか。さまざまな本を読んだり、お話を聞いたりしていますと(Uチューブで手軽にいろいろな方の講演を聞くことができます)、この誓いはしばしば次のように解釈されます。「十方世界のあらゆる衆生たちよ、心から信じてわが浄土に生まれたいと願い、たったの十声でも南無阿弥陀仏と称えなさい、そうすれば必ずわが浄土へ往生させましょう、もし往生できないならば、わたしは仏になりません」と。

タグ:親鸞を読む
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